明高24回生通信 01/ Jun./ 2001No.9 |
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現県立神戸工業高校 校長 大越智典彦 | |
現県立明石高校 教頭 阿南 一彦 | |
(3年5組) 二星 康子 | |
(3年4組) 服部 秀樹 | |
(3年8組) 松尾 和彦 | |
(3年1組) 河合(米沢) 嘉美 | |
(3年10組)岡崎 智昭 | |
― はがき短信 ― | 中尾先生、八木沼先生の奥様、吉川先生 |
--編集後記-- |
(3年9組) 中村 守 |
県立神戸工業高校 校長 大越智典彦
電話の向こうから突然に、懐かしい河合君の声が飛び込んできました。「交叉点」への原稿依頼ということです。そこで、過去の学年通信を繰ってみると、たしか2号目だと思いますが、「交叉点」という名称が採用された号に、小生の「短信」が掲載されていました。そう、丁度明高の70周年の記念すべき年でした。
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さて、24回生のみなさん、お変わりありませんか。小生は明高には昭和46年から昭和53年3月まで、母校には恩返しという意味も込めて7年間勤務させていただき、その後須磨東高校5年、神戸工業高校3年、川西緑台高校2年、国立淡路青年の家3年、県教委体育保健課2年、のじぎく養護学校4年、社高校3年を経て現在は県立神戸工業高校で校長2年目を迎えています。現在、小生の明高との関わりはというと、陸上競技部のOB会の副会長をしていますので、年に数回母校に足を運んでいます。外から見ているだけでは実際の中身はよく分かりませんが、生徒の気質は24回生のみなさんの頃とは雲泥の差があるように思われてなりません。良く言えば、自由奔放、悪く言えば、けじめがなくてだらしない、というところでしょうか。何はさておき後輩諸君には頑張ってもらわねばなりませんので、行くたびに物資並びに精神面での援助を惜しまず努力しております。 |
発起人は小田先生をはじめ、高徳先生、中西先生、高田先生、楞野先生、そして事務の長浜さんです。殆どの学校は、何かの形でこういった会があり、これまで明高に何故この会がなかったのか、不思議なくらいです。こういった会を通じて昔の明高の良さを引き継いでいきたいと思います。
この会には、諸君が直接教えていただいた国語の小倉先生や英語の東堂先生、家庭科の井上はるか先生、実習助手の小椋さん、養護教諭の中島美智子先生など懐かしい顔ぶれが随分と出席されており、久方ぶりに当時の話に花が咲きました。
今こそ、母校のためには外からの支援が必要な時と思います。間もなく80周年の案内も届くかと思います。小生も出来る限り出席したいと今から考えております。是非とも80周年の記念式典でお会いしましょう。
県立明石高等学校 教頭 阿南一彦
24回生の皆さん本当にご無沙汰しております。
四半世紀ぶりに「天下の明高」に戻ってきました。明高の後、明石西、高砂南と歴任して、最初の赴任地である明石高校に内示があった時には、驚きと同時に不安にかられました。「天下の明高」このフレーズをずっと心に焼きつけ、諸先輩の指導を仰ぎながら教師としてのノウハウを身につけていきました。当時は若手の20歳代の先生方が少なく、一回り上の先生方とのお付き合いが多く、公私共々鍛えられた記憶があります。また、全国中等学校野球の延長25回戦の印象が強く、まさか後に伝統ある明高野球部の監督をさせて頂くことになるとは夢にも思いませんでした。しかし、当時の明高は進学熱が高く県下でも有数の進学校でしたが、どの部活動も人数が少なく練習にも事欠いたこともありました。しかしながら一方では、生徒気質は校訓どおり「自治」「共同」「創造」の精神が生かされ、他校の範になるようなすばらしい学校でした。その代表は「明高祭」だったでしょう。私は自分の高校時代を振り返っても、あんなに感動のある学校行事を体験したことはありませんでした。 24回生とは授業を通じて、特に男子の皆さんしか接触がありませんでしたが、ともすれば忘れそうになっていた記憶も徐々に甦ってきました。伝統ある明高の歴史を受け継ぎ新しい明高づくりに貢献しようと考えています。
話が支離滅裂になりましたがよろしくお願いします。
*阿南先生は、今年の4月から明高に赴任されています
3年5組 ニ星康子
2000年4月、12年間勤務した明石南高校から、御影へ転勤になった。自転車でのんびりわずか7分の通勤から、7時前に家を出て電車に揺られる生活に激変した。新しい職場の人間関係とか、図書部での仕事とかに慣れるためのエネルギーは、若いときよりも必要だった。それよりも何よりも、頭の中にあるのは、「今日は新快速で座席が空くか?」ということであった。何しろ3日目で腰痛が始まり出したのだから。ところが西明石ですでに乗っておられる中年の方々は三宮までほとんど入れ替わらない。たまに明石で席を立つ人がいたら、間近にいる人は羨望のまなざしを受けることになる。バカバカしいと思えど、やはり一番の関心事は電車の席のことである。ある時、いつもと違う場所に立ったら、テリトリーを侵したらしく、隣の女性に「厚かましい」と言われた。立つ場所さえ新米には制限される。
担任のない気楽さから、7月から早朝補習を始めて、その英文にストレスの主な原因は?タバコや廃棄ガスなどの悪環境?長い通勤?職場の人間関係であると書いてあった。あーなるほど、これがストレスか!実は47歳になるまで現代ストレス病とは無縁であったのだ。何だか肩の力が抜けて、かえって気分が楽になり車内で本なども読めるようになった。図書のデータベース作りも順調にこなして、3年生の授業も終え、2・3月は毎日がバラ色で、「ウフフ、来年もこのままで、司書の資格なんぞとって、老後の備えとしよう」とか考えていた。
ところがその矢先、「3年の担任やれ」と言われびっくりぎょうてん。その理由は、「毎日早朝補習をしてくれたから・・・」ということらしい。この進学校では、久々の出来事だったらしい。ストレスをようやく手なずけた私の前に、また新しい毎日が始まった。同級生の皆様はそろそろ昇進あるいは独立し、相当の地位の方々もおられるでしょう。そんなことには無縁の私は、あと12年間やっぱり生徒を叱咤激励し、一緒に教室掃除をしていくんだろうと思う。一昨日面談したばかりのクラスの男の子が夢に出てきた。野球部の投手である。とにかく35人の生徒たち全員の願いがかなうよう頑張っていきたい。
3年4組 服部秀樹
いつの間にか玄関の沙羅の木も芽吹いて、また春が巡って来た。東京に出て来て23年目の春。就職して3年間、神戸での仕事の後東京へ、そしてもうそんな長い歳月が過ぎたことになる。
今住んでいるのは西東京市。去年までは保谷市といって、西武球場のある所沢の手前、池袋からは約30分という東京でもまだ緑が多く残っている地域になる。ここには20年近く住んでいるからもう第2の故郷といってもいいのだろう。そして今年20歳になる長女を始め、3人の子供たちには文字どうりの故郷である。井の頭公園、小金井公園、狭山湖、それからトトロの森といった心休まる場所も近くにあり、東京のはずれといった方が当たっているだろう。この住み易い緑の環境は明石を思い出させるところもあり、ただ私にとっては海が見えないことが唯一残念なところである。
東京に来てからいろんな仕事に携わってきたが、自分では大きく2つの仕事が記憶に残っている。その一つがNISSIN
POWER STATIONというライブスポットを立ち上げたこと。これはロックのライブを観ながらフルコースディナーが食べられるというコンセプトのレストランで、
それまで日本にはなかったものである。約1年半の準備期間を経て、こけら落としを桑田圭祐ライブでスタートさせ、年間20万人の若者が集まってくる人気スポットに仕立てる事が出来た。情報誌「ぴあ」の人気ライブスポットの1位にも選ばれて、東京新名所と呼ばれるまでになったのである。私自身は立ち上げから3年でつぎの者にバトンタッチしたのだが、とてもスリリングでかつ充実した3年だったといえる。
もう一つは、その後宣伝部に戻り手掛けたカップヌードルのTV?CM「hungry
?」がカンヌ広告賞でグランプリに輝いたことである。原始人たちがマンモスやモアといったいろんな原始動物に追いかけられるシリーズなので観た記憶もあるかと思いますが、世界一の賞を貰ったことで当時のCMの話題として随分いろんなメディアに取り上げて貰うことができた。プロデューサーの立場で苦労も多い仕事だったが、とても嬉しい結果に思い出も多い仕事であった。
そして4年前からはマーケティング部で新製品開発に携わっている。試食が多く(当たり前か)一度に5キロも太ってしまい、幾多の努力にも関わらず体重はそのままという残念な結果。この部署にいる内は仕方がないと諦めるしかないかな。
先月3月の末に久しぶりに明石に帰る機会があった。両親の墓参りの後、今は兄が継いでいる実家へ。そして朝霧にある家内の実家へと忙しい帰郷だった。懐かしい明石の駅からはきれいになった明石の城が見え、朝霧の海では壮大な大橋が空に届けとばかりに広がっていた。カメラのフレームに収まらないこの景色を見ていると、やはりここは私の心の故郷だと思う。懐かしくて、そしていつも新しく、いつも帰って来るのを待っていてくれる場所。
いつか是非同窓会にも出たいと思う。今年の秋には朝霧の両親が東京に転居してくる予定になっている。だから、私が次に明石に帰るのはいつになるんだろう。今のところ予想がつかない。でも、連絡は下さい。いつか是非久しぶりな顔を見せに行きたいと思います。
3年8組 松尾和彦
すまん。まだ、何か書くほど北海道にいてへん。カニもまだ食うてへんし。
冗談はさておき、一冬も超さずに北国を語るわけにはいかんでしょう。
それでも、モノクロだった街が雪が解けると同時に緑に・極彩色に(モクレンから桜から、いっぺんに花が咲きます)日に日に姿を変えていくのを見たり、都心の公園(といっても職住接近なのですが)に子供連れが湧き出して、春を満喫している姿を見ると、ここもなかなかええとこやないか、という気がしてきています。
那覇にいたときには、クーラーあってヒーターないのが常識。札幌ではヒーターあってクーラーないのが常識。 日本も広いで。
それでは、また
*松尾氏は4月から札幌に単身赴任されています
3年1組 河合(米沢)嘉美
先日、転校をしたのが嫌でこころならずも母親を刺し殺してしまったという小6の男の子のなんともやりきれず痛ましい事件があったのは、皆さんの記憶にも新しいとおもいます。それに対しては色々な意見があると思いますが、私も転勤族の娘として育った経験があるだけに他人事とは思えませんでした。小学校では四校、中学校は二校に通いました。思い出せば小学校の三校目から四校目にかわる小学校四年生の時には「もう二度と友だちは作らない、どうせ、すぐに離れてしまうことになるのだから」と子供心に悲壮感をただよわせた記憶があります。
そんな私にとって、入った学校に最後まで通い、そこを出たというのは、幼稚園、高校、大学なのですが、幼稚園はあまりに幼すぎて、あまり記憶もなく従ってなつかしさも感じません。
また大学は、逆にあまり巨大すぎる場所で漠然としすぎていて、やはり母校となつかしさを込めて呼べる存在ではありません。明石高校は、その中で私にとって母校と呼べるとてもうれしい学校です。とは言え、ずっとそう思っていたわけではなく、そのことに気づいたのは、長女が明石高校に入学することになり、入学式で校歌を歌った時でした。在校していた時と同じ中部講堂で、校歌のメロディーが流れ、それを歌える自分がいて、何か熱いものがぐっと胸に込みあげてきて、これが私の母校だと強く感じました。
そして、次女と三女もお世話になることとなり、何回か母校に足を運ぶことがある度に、二十数年前のあの頃と同じ風景を見つけ出してはうれしく思いました。それと同時に明石中学出身の父が、やはり私の高校時代に「あれは、まだあるか?」となつかしそうに聞き、自分の思い出をうれしそうに話してくれたことも思い出しました。
父から私に、私から娘へと、歴史を引き継いでいく母校。そして私にとっては、一生を共にする夫とめぐりあった場所でもあります。最近、明石の町で母校のレベルの低下がささやかれ、明高出身であることを恥じるということを聞きますが、娘たちがお世話になり中から見てみますと、昔と違う学生気質は確かにありますが、先生方の情熱は昔と何ら変わることなく、生徒たちに限りない愛情を注いで下さっていることに感激しました。特に次女、三女の学年には、福井尊徳さん、佐伯敏裕さんがいて下さり、松本良信先生にも親子二代お世話になれて、幸せでした。私自身も、高校二年の時担任をしていただいた高田美知子先生と、今度はPTAの旅行で福山方面にご一緒させていただいたことは、とてもうれしいことでした。
我が母校が、これからも歴史と伝統を末長く次世代へと引き継いでいき、明石の中心として存在していってほしいと心から願ってやみません。
1年6組 岡崎智昭
高校に入学して初めての担任の先生なのだけれど、強い印象を持ったわけではなかった。背は高くない、静かにちょっと小首を傾げ少し右手を上げ、その手を僅かに上下させながら話される。高圧的なところは微塵もない。見た目に残るのは、可愛いタレ目と青々とした髭の剃り跡くらい。東京の方から転任してきたばかりで学校の様子や生徒のことが分からないからと、クラス委員は出席番号の前から順にと話される口調が実に普通で、そのことに異議を唱える発想すら思い出せないように自然に耳に入ってきた。自分にとって強い印象は残らない、しかし、なぜか忘れない。
先生は、奥様を亡くされてから、又、東京の方へ帰って行かれた。奥様の葬儀のために東加古川へ行った、不確かだが、そこが奥様のご実家だと聞いたように思う。一度だけ、明石駅でご夫妻が歩いている後ろ姿を見かけたことがある。蚤の夫婦だった。でも、奥様が先生に寄り添っている感じに見えた。今、自分がこの年齢になって思う、あぁ夫婦の姿なんだと。
先生はなぜ明石の地にやって来たのだろう。
3学期も終わろうとするある日、私は先生から社会科室へ来るように言われた。
やっぱり成績だ。あまりにひどい。先生はいつもの口調で静かに「この成績はどうしました。」一瞬凍り付く。なんと答えれば怒られずに済むだろう、長い小言を聞かずに済むだろうと、無い知恵を思い切り搾った。でも、何も無い、えーい仕方ない。
「高校に入ってから勉強したこと有りませんから。」と答えた。さぁー来るぞ。
「何ーい!」で始まると思いきや、少し驚いた目で、「あー。」「そうですか。それでは成績は下がりますね。」「プロセスがあって結果があるのですから。」それで終わり。
“プロセスがあるから結果がある”今も、フッとした瞬間に自由な自然体の風が吹く、31年の時を過ぎても。先生に再び会えることはなくなってしまったけれど、きっとこれからも私の中では、あのときの風が吹くのだろうと思っています。
八木沼先生のご冥福をお祈りします。
合掌
*八木沼先生は昨年9月になくなられました、ご冥福をお祈りいたします
拝啓、まもなく土用。いよいよ夏本番、お元気でご活躍のこと、何よりです。 さて、今日「交叉点24」と同期会の記念写真とどきました。まことにありがとうございました。なつかしさ一杯に拝見しました。改めて、お世話いただいた幹事の皆さんに、お礼申し上げます。また、それぞれの方が、それぞれに場を得てみごとにご活躍。さすが明高生と誇りに思いました。 〜それでは、益々、ご機嫌よろしく。どうぞ時節柄ご自愛のほど〜。 早々
(中尾先生) |
夫、八木沼健至は昨年九月、永眠いたしました。六十二歳でした。 人生八十年と言われるこの頃ではなお実年の盛りと申せましょうが、これが夫の天命だったと考えることにしています。生前は大層お世話になりながら、何のご恩返しもせずに逝ってしまい、まことに申し訳ございません。 すぐにお知らせをと思いましたが、ご心労をおかけしてはと思い、心ならずも連絡を控えさしていただきました。 どうか。お許し下さい 生前のご厚誼を深く感謝し、謹んでお知らせ申し上げます。 神奈川県逗子市桜山6-1326-73 八木沼 千鶴子 とても残念です。 (八木沼先生奥様) |
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ある土曜日の夜、めったに鳴らない私の携帯電話にコールが入りました。「あ-、中村?濱口(次回の同期会、幹事です)やけど、今日はありがとう。」「えー、何の事?」と、私。「今日、昼から頭をうった子供を診てくれたやろ。僕の孫や。」と言うのです。たしかに昼をだいぶ過ぎた頃に、女の幼児を診察したのですが、まさか同級生の孫とは、、、同窓会では、女性陣から娘の成人式の話などは聞いていたのですが、男の同級生に孫が出来ているとは、、、。とうとう自分も「おじいちゃんの年齢」になってしまったのかと、ちょっと考え込んだ瞬間でした。
まあ、自分の子供はまだ中1と中3ですから、おじいちゃんになるにはもう少し時間があるようですので、少しずつ心の準備をしたいと思っています。
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