交叉点24

明高24回生通信

01/Jul./ 2001
No.10 
Vol.10.2001
「明高での教員生活を振り返って思うこと」
吉田亨盛 先生
松尾和彦 君
「忘れてはならないこと」
田辺秋比古 君
「製造業はもうだめかな、、、」
中村泰之 君
「恩 師」
「押原先生の思い出」 大和(旧姓西)満理子 さん
メーリングリストに参加しませんか?
− 編集後記 −
「kosaten24」に投稿された子供ネタ

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「明高での教員生活を振り返って思うこと」

                                吉田亨盛

二十四回生の皆さん、ご無沙汰していまするお元気ですか。明高を去って早くも四半世紀が過ぎました。また皆さんとなじみの深い中村隆次先生が逝かれてから十年の歳月が流れていきました。思い出も薄れていき、明高は次第に遠くなって行く昨今でした。突然河合兄から電話をいただき「交叉点」への原稿依頼があり、明高や卒業生の皆さんへの思いが呼び覚まされました。また来年は明高創立八十周年記念の年にあたるようでいろいろと連絡が入るようになりました。さらに今年から学校週五日制が実施され、ゆとりのカリキュラムが始まり、教育論議も高まってきています。長らく教育現場から離れ隠居の身である私の周辺もにわかに教育の風が吹いてくるようになると明高における教員初任時のことがなつかしく思い出されます。

大学卒業を控え高校教員になりたかった私は、家から通える範囲の二〜三の高校に声をかけておきましたところ、幸い明高から面接に来るようにという返事をもらい、採用してもらえるかどうか不安な気持ちを抱えながら校長先生を訪ねました。昭和二十七年三月のことでした。木造校舎の本館一号棟の職員室に入ったところ、大木の切り株をくり抜いた大火鉢に炭火が赤々といこっていました。それを囲んで三〜四人の先生が談笑しておられ、私はその先生がたに声をかけたのですが、その内の女性の先生に生徒と間違えられて注意されてしまいました。この時の印象は脳裏から離れません。二十一歳でした。幸い採用されることになりました。

教員としての初登校日。玄関前の桜花が満開の好日でした。二人の女性の先生とともに教職員の方々、全校生への挨拶をしましたが、男性が私一人ということで代表でさせられました。昭和二十七年四月は六回生が二年生でしたが、私はその二年B組の担任と決まっていました。当時、初任の教員が担任をすることはまず無かったのですが、何故私に担任がまわってきたのかよく判りません。信じられない思いで、正直ビビリました。というのには理由があるのです。私は小・中・高・大とすべて旧制度で歩んできました。戦中、戦後に育った私にとって男女共学は経験がありません。ホームルーム、生徒会活動、複雑な選択制のカリキュラム、PTA、進路指導などなど新制高校についてはすべて始めての経験でした。担任している生徒は小・中・高一と新しい教育制度の流れの中で二年生になった生徒です。いろんな点で彼らの方が先輩であり、あれやこれや生徒に教えてもらうことの多い初年度でした。しかし生徒は私をバカにもせず(していたかもしれません)実に適切に対処してくれたように思います。

このような形で明高へ着任した私は「戦後に生まれた新制高校とは何なのか」「高校教員は如何にあるべきなのか」と必死に取り組み、日々研鑚することを強いられました。今から思い起こしますと、戦後六年間にわたって新制明高の基礎が見事に確立された時期であったと思います。その大任を果されたのが、私を明高に採用して下さった第二代加藤校長先生でありました。先生は私が赴任するのと入れ替わりに退任されました。たった半月、わずか二〜三回お会いし、お話しさせていただいただけでしたが、退任時の全校生へのご挨拶を含めて強烈な印象を残して下さった素晴らしい校長先生でした。新制明高のカラーはこの時代に確立されたものと思います。そして私は新任のフレッシュな気持で「新制高校教育とは」をこの明高で学ばせていただいたのです。

教科の勉強は勿論のこと、ホームルーム、生徒会活動、クラブ活動、進学就職などのガイダンス、何もかもがあくせくせずに悠々とスマートに回転していたように思います。今の教育論議を踏まえて振り返ってみますと、高校教育はこうあってほしいと思う典型のような高校生活が当時の明高にあったように思います。昭和五十一年明石学区総合選抜制による三学年が揃う年に、二十四年間お世話になった明高を去ることになりました。総合選抜制度によって、明高も新しい時代に入ったと言えるならば、新制明高の確立期から成長期、充実期の二十四年間も明高でお世話になったことは本当にありがたいことだったと思います。とにかく皆さんと出会った頃の明高が、私の全教員生活を通じて最高であったことを皆さんにお伝えし、自分自身でも思い返しなから、稿を終わらせていただきます。


「忘れてはならないこと」

松尾和彦

今日は朝から雨、少し肌寒いくらいです。ワールドカップも無事始まったようですが、大阪府警始め他府県の機動隊が札幌入りしており、外人と警官がやたら目に付きます。7日のイングランドxアルゼンチンも騒動なく終わって欲しいものです。

沖縄のことを書き込みます。 私が住んでいたころ(10年チョット前です)、6月23日は沖縄県民の休日「慰霊の日」でした。

今も「慰霊の日」であることは変わりませんが休日かどうかはわかりません(県民の休日という概念が法的な問題になった記憶があリます)。「慰霊の日」はもちろん第二次大戦の犠牲者に対するものですが、6月23日という日は在沖縄日本守備軍の組織的な抵抗が終了した日(司令官が自決)に因みます。

多くの日本人(本土にいた民間人)にとって戦争は8月15日に終わったわけですが、慰霊の日とは言うものの6月23日は沖縄戦が終わった日ではありません。軍の軍としての統率機能が完全に失われた日というだけで、国としてはもちろん沖縄守備軍としても降伏していませんから組織的でない戦闘は続きますし、通信網(ラジオも新聞も無線も)は壊滅状態ですからそんなことを知っていた人はほんの一部でしょうし、仮に司令官の死を知ったとしても国が降伏したわけではありません。戦闘は続くし何も変わりはしないのです。

こんな日を「慰霊の日」に選ばざるを得ないのが、沖縄の悲劇を象徴している気がします。

つまり、沖縄の民間人にとって「戦争の終わった日」は一人ひとり違います。ある者は疲弊し意識朦朧としているところを米軍に保護され、またある者は自らの意思により米軍に投降し(軍人でもないのに投降は変ですが)。そしてまた別の多くの人たちは死によって、8月15日以前に戦争を終えています。

6月23日より前か後かは人によって違いますが、亡くなった方たちは米軍の攻撃の犠牲となった方、傷病死された方、自決された方(まだ統率の取れていた軍の中枢近くにいればこうなります)、そして自国軍によって殺された方です(足手まといになるという理由で)。

沖縄タイムス社編「鉄の暴風」によれば沖縄県民の死亡者は学徒隊1千人、軍関係28千人、住民14万人。戦前の沖縄の人口は同書によれば40万人。すごい数字です(日本軍の沖縄戦での戦死者66千人。捕虜7千人。これもすごい数字ですが)。

少し長くなりました。

だからといって別に「沖縄開発に予算をつけろ」とか、「米軍は沖縄から出て行け」とかいう話はないのです。

何かの縁で沖縄戦の話を耳にした者として、忘れてはいけないこと・後世に伝えていかねばならないことがあると思っています。

かつて沖縄で(日本国本来の領土上で)近代史上稀と思われる「市民を巻き込んだ地上戦」が行われたこと。市民を地上戦に巻き込んだのは日本軍であり、日本という国家自身でもあること。 (フランスのレジスタンスのような市民の戦い方は想定されていなかった。)

ケネディは「国民が国のために何ができるか」を問うたと記憶しますが、かつてのこの国は国体を守るために国民に死を強要したようなものです。戦前の天皇制のもとでは、軍が敗れても・敵国統治下にあっても国民が健在であれば国家は・民族は死なないとはなかなか考えなかったようです。

それでも、明治以降皇民化教育を受け、軍国教育を受けた者の中にも地上戦の最中に自ら米軍に投降する者のいたこと。国に背いても、ヒョットすると帰属すべき国を失うことになろうとも、鬼畜米英に白旗を揚げてでも生きることを選んだ者のいたこと。
沖縄にいたころ「命どぅ宝」という言葉をよく目にしました。生きていること、そのこと自身への賛歌でしょうか。

去年も6月にこの辺のことを書こうとしたのですが、うまく書けずやめました。今年もやっぱりうまく書けないのですが、それでも書き込むことにします。ご容赦お願いします。

6月23日にはテレビのニュースで摩分仁の丘の慰霊碑から中継があると思います。

晴れていれば綺麗な珊瑚礁の海と緑の丘が映るでしょう。57年前ほぼ同じ場所で、艦砲射撃で木は吹き飛ばされ地形まで変わる中、梅雨時の洞穴を半死半生で彷徨っていた人たちがいたことに思いを寄せていただければ幸甚です。   以上


「製造業はもうだめかな、、、」

田辺秋比古

大学を出て20数年、技術、資材、製造等と製造業の第一線を歩んでき、それなりに「ものづくり」に対するこだわりと誇りを持ってきた。しかし、最近ふっと頭をよぎる「製造業はもう駄目かな・・。」

「ISO9001を取得し、それをきっかけに何とか体質を変えて、立派な会社にしたい。」そんな思いに共鳴し今の会社に来たのは、今から2年あまり前。

その取得も一時は「駄目かもしれない!」と絶望しかかった時期も有ったが、実地審査直前の力技?で何とか取得。しかしその後も変化する兆候も出てこない。

依然としてミスだらけの図面が出図される。

無検査の不良品が出荷される。「なぜこんな事ができない!」思わず飛び出す叱責の言葉。なぜこんな風になってしまったのか。

そう、大事なことを忘れていた。

ルールやシステムを作っても肝心要の人を作っていなかった。

「ものづくりは人作り。」設計を担当していた時は「図面の一本一本の線の中に如何に顧客の思いを織り込むか」また製造を担当していた時は「ただ図面を見るのではなく、その向こうにある設計者の意図を汲み取れ」そう上司に教えられまた部下に教えてきた。

 未知の業界、与えられた責務の大きさ、そしてノルマ、それらが知らずうちにプレッシャーとなりいつのまにか目の前の数値に追われ、本質をわすれてしまっていた。

でも、これは単に私だけの問題なのだろうか?

ただただ目前の浮利浮益を追い求め続けた見境の無い企業のリストラに始まり銀行、食品会社の経営トップ、挙げ句の果てに外務省の失態。

一体我々はなにを作ってきたのか?なにを作ろうとしたのか?

それは「自分がどうありたいのか。どんな人生を送りたいのか。」そういう考えを求めずまた求められずに「いい高校へ入り、いい大学を出ていい会社に勤める。そうすればいい人生が送れる。」我々の世代やそれ以前の人達はそうした考えを教え込まれてきたその結果なのでは。

(いや今でもそう信じているかもしれない)

一芸入学、週休5日制 ゆとりの教育 

多いに結構。

でも今求められているのは

「倒れた老婆に手を貸す。」

「おかしいものはおかしい。」と素直に言える。

「部下は上司や先輩が育てたように育つ。」

「子は親が育てたように育つ」

そんなレベルのことかもしれない。

 しかしそれを憂い、またそれを怒り険しい顔をし肩を怒らしたところで何の解決にもならない。

ただ「艱難辛苦、汝を玉となす」の言葉ではないが、人生の折り返し点を過ぎ、同窓の人にも物故者が増える中、「自分自身で納得のいくいい仕事をしたい。」そんな想いが日増しに強くなっている。

それは成功したとか収入が多いというような物差しで計るのではなく人生の最後を迎えた時、自分自身が生きて存在したという証のようなもの、そう「人を残す。」そんな仕事をしたい。

だから最近ふっと思う

「製造業はもう駄目かな・・だけど結果を恐れず誠心誠意そして精一杯やるしかないな。」と。


「恩 師」

中村泰之

悲しいです。悔しいです。57才。

平成14年4月15日未明、阿南先生が亡くなられました。

明高入学以来、34年間お付き合いさせて頂きました。

先生の人間性に引かれて、明高、明石西高、高砂南高とずっと先生の後を追いかけました。その都度、おおきな懐の中に入れて頂きました。

お互い女房殿には迷惑をかけながら、野球をして、お酒を飲んで、野球をして、、、、。

先生の周りにはいつも人が集まって来ました。

ご葬儀の折、教職員の方々はもちろん、遠方より、又、仕事を休んで、たくさんの教え子が参列しました。そしてその教え子のご父兄の方々が多数参列しておられたことが、何より阿南先生という「人」を物語っておりました。

お通夜の時、先生は「オゥ、すまんな」と言って下さいました。最後のお別れの時、先生はただにっこりと微笑んでいる丈でした。

ノックをする先生、バッティング投手をする先生、サインを出す先生、お酒を飲む先生、歌を歌う先生、ダンスをする先生、いっぱい、いっぱい浮かんで来ます。

ありがとうございました。

寂しいです。本当に悔しいです。 合掌。

阿南先生は明高教頭を休職し、療養中とのことでした。昨年の「交差点24」への寄稿文がわたし達にとっての遺稿となってしまいました。(編集者注)


「押原先生の思い出」 

大和(旧姓西)満理子

 

 高三担任の先生は押原先生でした。毎日帰りのホームルームで前日の学級日誌を読まれ、コメントして下さったものです。その内容がとっても面白いのと、先生の不思議な力でクラスに和ができていました。多分とても頭のいい先生でひとりひとりをよく見抜かれていたのと、先生の優しい考え方が、あの受験の時期でもクラスを明るく楽しい場にされたのだと思っています。受験指導は先生の考えを前面に出されず「そうか。」の一言で終わりました。でも先生がそう言って下さると私は本当に信頼できました。

 そんなわけで私は卒業後も先生にアドバイスしていただきました。私が働き始めて何年かした時、明高の理科室を尋ねました。先生は、一言先生の考えと理由を言われて、若い人のための“親鸞の救い”というテキストを私にくださいました。それは先生自身が書かれた論文でした。『私には青年時代からひとつの願望があった。それは、「本当に純粋な、真実な人間に一度でいいからお遭いしたいものだ」…人生、40数年。私は、完全にその願望を果たしたのである。その名は親鸞。』という文で始まる先生の心の中の言葉をそのまま文にされたものでした。あのいつも優しい先生が普段私たちに語られない面でしたが、先生が、一年半かけて、数十冊の本を読んで到達された心境へ、今苦しんでいる若い人が近づき救われるように手を取り導いて下さっていました。でもその時の私の心は狭すぎて、理解できませんでした。

 それから一、二年後私は先生のご自宅を尋ねました。「足に何かひっかかるような感じで、病院に行ってきた。」と言われました。先生を奪った病気の兆候でした。それでもその年、私の幼稚園の先生だった奥様と先生とご一緒に私の結婚式にいらして下さいました。先生が京都に療養のため入院された時、私はご祈?を受けて欲しいと奥様にお願いしました。先生は「西がそんな事言うのか。行っておいで。」と奥様に言って下さいました。今から思うとアホな教え子で先生にも奥様にも無知なお願いをしてしまい申し訳ないです。

 先生にテキストをいただいて二十三年ぐらいたった今、私は先生の歩かれた心の道がやっとたどれるようになりました。『体験のみが、宗教を、親鸞を味わえる唯一の道であるのだ。』

と先生も書いていらっしゃいます。『昭和50年2月13日、それは冬にしては珍しい、春のように暖かい日であった。…私は、その時忽然として、ある種の“ひらめき”を得たのであった。親鸞の救い・歓喜とはこれであったのだと。』この“空”の悟りがこだわりから解放される心の頂上のようです。

 色々な事が変化してしまう現代に親鸞の教えのような不動のものを知るのは考えもしなかった発見でした。

壁にぶつかるといつも思います。「押原先生だったらどう言って下さるかしら?」


メーリングリストに参加しませんか?

1、「メーリングリストって何?」

「kosaten24」というグループあてにメールを送るとそれがメンバー全員に届く、という仕組みです。顔は見えないながらも、車座になって話をしているイメージです。

2、話の内容

世間話です。ペットの話題を一人が持ち出すとしばらくその話が盛り上がり、蛍の話が出ると蛍の見られる場所の情報で盛り上がったり…。

7/1〜7/4に投稿された子供ネタを転載します。

3、参加メンバー

6月18日現在で、28人(内女性は4人)。

4、参加方法

河合宛にメールを下されば、「招待状」をお送りします。

aykawai@maia.eonet.ne.jp

5、その他

メーリングリストメンバーでアルバムも作成しております、ご覧ください。

ヤフーのアルバム、もしくは私のHPのリンクから入って、ID「kosaten24」(半角)でご覧いただけます。

http://www.eonet.ne.jp/~aykawai

(見にくくなりましたが、/のうしろはチルドです)

6、掲示板

西海さんのHPに、「交叉点24」の全文を掲載いただいています。掲示板もありますので、ぜひ一度のぞいてください。

http://www.sbckobe.co.jp/haruka/default.asp

〒674-0051 

明石市大久保町大窪1000-1河合昭彦

Tel & Fax:078-934-1667

E-mail:aykawai@maia.eonet.ne.jp


− 編集後記 −

記念すべき第10号となりました。

編集を終わってみて、硬い文章が続いたことに気が付きました。わたしたちが、人生と真正面からぶつかっていかなければならない年代になったからかもしれません。

少しやわらかい子供ネタメールを最後に載せました。こちらもご一読ください。

皆様からいただいたカンパ(ほとんど郵送費に使います)も来年度分を残すのみとなりました、この交差点をどうすればいいか考慮中です。また使途明細はエクセルファイルで送ります、メールください。

原稿を募集します、葉書、手紙、メールどんな形でも結構です、ふるって寄稿してください。


〒673-0845

明石市太寺3-2-3 中村守

Tel & Fax:078-911-7510  

E-mail:Drmamoru@aol.com

7/1〜7/4のメーリングリスト「kosaten24」に投稿された子供ネタです。

読んでいて「楽しそやなー」と思われるあなた!!参加しませんか?

よねだ(みつこ)

西海君、今回の埼玉は娘のところです。社会人2年目で何かと悩み事があるようで、頼りない母親ですが少しは女の先輩として色々相談を受けてきました。でもそれはたてまえ!本当は女同士の楽しいおしゃべりです。(なかなか忙しくてこっちには帰って来ないのです)


西海(誠)

そうでしたか。推理は間違ってましたね。社会人になられているのはお嬢さんでしたか。

河合君の所もみっちゃんの所もお嬢さんが勤務の都合で遠く離れて一人暮らししているけどやはり何かと心配でしょう?

本人たちは普段は結構羽を伸ばして適当にやってるんでしょうが、でもいざという時に今回のみっちゃんの様に飛んできてくれる…口には出さないけど(すみませんこれは家の子供たちだけの事でした。)ありがたいと思っている事でしょう。

そうそう埼玉といえばその辺りに24回生の旧姓・桃尾さんがいますよ。彼女もお嬢さんが福岡に単身勤務していて、やはり時々福岡へ行っているような事を言ってました。

どうですか?離れて暮らしているとお互いに以前とは違った接し方をする様になったという事はないですか?


岡崎

私の処は大学の三回生で、一人暮らしと言っても親に甘えていればいいと思っているお気楽な輩ですから、社会性なんてものは持ち合わせていません。しかし、仕事を持っているとそうはいかないですよね。そんな中で離れて暮らすと言う事は何か違うものを生むのでしょうか?

みっちゃんの娘さんが大学時代をどう過ごされたかは知らないのですが、河合君の処のように、娘さんが大学で下宿生活を過ごされた時と、社会人として家を離れた今とそんな違いってありますか?

まだまだスネかじり生活が続くであろう我が家の娘をして、そんなことを知るよしもないように思います。良かったら聞かせてください。


河合昭彦

現在、長女は名古屋でワンルームマンション暮らしです。寮生活から就職して今の生活になって変わったことは、部屋が広くなった事、共同炊事場だったのが自分の部屋で調理できるようになった事、風呂も当然自分の部屋にあるわけですから、要するに大変環境がよくなった、という所ではないかと思います。食事ももともと自炊していましたので。

同じ寮から出るにしても、寮食があるのかどうかで随分違うように思います。 三女は寮食のある寮を出て、アパートで一人暮らしですが、早くも自炊がめんどうのようです。

 参考になりましたでしょうか?

勝川 周春

みなさんご子息の事で盛り上がってますねぇ。

私には、子供が居ないんで自分の立場では物が言えないんですが、もう大学や社会人として独り立ちをして行ってるんですね。

是非みなさんのMLを読んで、自分もその世界に入ってみたい気がします。会社の同僚や部下の話では少しリアル過ぎて一緒にリストラも考えて・・・イヤになる。

是非、娘や息子の愚痴も書いてください。私には新鮮なうらやましい言葉に見えてきます。宜しく・・・


西海

子供には海外でも国内でもどこへでも行きなさい。むしろ積極的に出て行くように勧めています。でもその反面やはり、ちゃんと飯食うとるやろかなどと心配もしてしまいます(特に母親は)。うちの場合は男なので死なん限りなんでも経験しといたらええわと思っていますが、女の子の場合はやはり少し違うでしょ。

それも男親と女親でも考え方が違ってたりもするでしょう。

本人も周りも職業に就く事へのまた仕事をする事への意識は、昔と今では比べものにならないじゃないですか。私は姪でしかまだその様子はわかりませんが、男女関係なしの非常に厳しい就業状態のようです。特に勤務時間については帰宅が夜中とかざらの様ですし…。

そんな中でも自炊しないといけなかったりとか、いろんな悩み事とかを抱えたりとか。もちろんそうやって成長していくんだろうけど。

そんな時に親や兄弟姉妹や友人の存在が大切であり、そんな中で自然と以前とは違う関係(これが接し方です)が生まれてきてたりするんじゃないかと思って。

でもこれはMLへの投稿はしにくいかな?

勝川君ご要望のぐちとかでいうと、家の息子は今年4年目(現在3回生、推して知るべし)の京都暮らしをやっていますが、呑気すぎて完全にアウトサイダーどころかアンダーグラウンダーになってます。

この先どうするのかと思いますが、所詮彼自身の事なのでと放ってあります。

ただその所為で我が家は火の車です。


よねだみつこ

私もよしみさんとまったく同じ。娘は大学2回から下宿を始め、去年からの就職による一人暮し。まったく気持ちが違いました。本当によしみさんと一緒の思いです。今も少し結婚に関する悩みを抱えています。このまま結婚(それも関東で・・)と言うことになれば、本当に私の手元から離れていってしまう不安が膨らんできます。私はまだ子離れが出来ていないと自分では思います。娘には傍にいて欲しいと言う思いがまだまだ強く、困っています。早く強い母にならないと・・。

息子は息子で、今は4回生(西海君、前に3回生と言ったような・・。ゴメン、間違えました、子供の年を・・!)ですが就職活動もせず、卒業後はカナダに行くと言って遊びほうけています。将来が心配!

女の子のほうが男の子よりずいぶんしっかりしているように思います。


塚原

子息の話で盛り上がってますね。いっちょかみしたいと思います。

うちは、男が二人でどちらも就職しています。上は高専を出てすぐに東京に出てしまいました。そんな小さな会社やったら、この近所になんぼでもあるやないか・・・というようなところへ勝手にもぐりこんでしまいました。下はこの春、工業高校を卒業して、姫路市内の技術屋さんの世界(ここも小さな会社です)に入りました。

二人とも大学というところへは行かせませんでした。大学なんか行っても何にもならへん・・・はよ社会に出て、うんと揉まれた方がええ・・・やむにやまれんほど勉強の必要性を感じたら、また大学なり何らかの教育機関へ、自分の金で行け・・・こういう言い方をマジでしてきたわけです。

 口ではそう言っても、実行していない親は多いですが、これは断固貫こう(もちろん子供が大学へいきたいといえば話はかわっていたでしょうが)と私はしていました。

抵抗勢力は実家の祖父母や身の周りの人間でした。「あんたは、親のすねかじってコクリツの大学院までいかしてもろて、なんで自分の子供にそんなこと・・・」とずっと言われつづけました。「死ぬほど勉強してきて得られた結論がこれなんや・・・」っていうのが私の常套句ではあるんですが、ほんまに死ぬほどやったんかと自分でも、どの口が言うとんねん・・・っていう感じではあります・・・(笑)。

二人の息子は、まだ生きていくための戦いを始めたばかりで、そんな話もできる段階じゃありませんが、そのうちにいろんな反応が返ってくるだろうと思っています。

いまは、時折、男どうしで酒を飲めることにささやかな喜びを感じているところです。


河合嘉美

塚原さんのご投稿を読んでわたしの学生時代を思い出しました。

 高三の時、母から、「うちには女を大学へやるお金はない。どうしても行きたかったら国公立のお金のかからない所なら出してやる。それが無理なら高校を出たら就職して働きなさい」 と云われました。

 別にその時、不満にも思わず当然だなと思いました。 そして時が流れて娘達がそれぞれの目的があり大学へ行きたい、と云った時に同じ事を私も娘達に云いました。

 娘達もそれを当然のように受け入れてくれ、バイトをしながら頑張ってくれています。

 女の子は気楽よねと人から云われることもあり、そうかなあと思っていましたが、男の子さんを本人の考えどおりにさせられたという事を今日拝見し、強く共感しました。

河合昭彦

家内が投稿していた意見と私は少々違います。

私の場合は、親のスネを思いっきりかじって好きな事をしておりましたから娘にも甘やかせたい思いで一杯です。 ただ、経済状態がゆるさないので思うように甘やかせないだけです。 結局は娘の大学進学について、結果的に私が口をはさむ必要を感じませんでしたが、もし娘がすぐ就職、という結論を出していたらどうだったかと思います。おそらく、「大学ぐらい出たら…」と口説いたでしょうねえ。

自分が大学を出ておりますので、私は大学を出てない気持が判りません。でも私がもし大学に進学していなかったら、おそらく大学出に対して無用な劣等感とそれから来る敵意をいだいていたんじゃないかと思います。


塚原

さて、大学ねーー。無論僕自身も大学へ行ったこことはよかったと思っているんだけれど、価値がぜんぜん本筋になくって、横っちょの方にある。大学が与えてくれたことに価値があったんじゃなくて、大学へ行っている間に、自分で勝手にやっていたことに価値があったような気がする。懐古趣味に走りやすいので、内容はいちいち書かないけれど、学校の勉強以外に一生懸命になっていたことに価値があるような気がしてならない。

こういうのを本当の「ゆとり」っていうんだと思うんだけれど、自分の息子達にこれを味合わせることができなかったというのは、たしかに残念なんです。すぐに就職したら、じゃあ、そういうことがし難いのかどうなのか・・・これは僕にもわからないなぁ・・・息子達が自ら実験してくれればいいんだけれど・・・


西海

子供たちの進路については育て方の違いというか親の経験やそれに基ずく考え方の違いが如実に出ているようですね。私なんかはそんな強いものが無かったので親としては子供の将来に選択肢が増える方向へと考えさせるようにしていました。ですから形としては河合君と同じ様に自然と進学の事しか我々の頭には無かったように思います。

その頃とっていた言動は、良くないのですが「そんなに勉強せえへんのやったら就職せいっ!」でした。一種の脅しでした(就職する事を冒涜するものではありません。念のため)。

結果子供も何となく進学して当初は無為に(学問をする事に対しては)過ごしていたのではないかと思います。途中で自分の目標を見失い挫折した子もいます。まあでも子供にすれば、それはそれで良いのではと思います。彼らが後々振り返ってみるものだと思うから…。

むしろ進学であれ就職であれ、新しい今までより一周り大きな社会に飛び込んでいくのだから勇気をもって経験(人間関係、仕事、学問etc)して欲しいと常々思っています。

そしてみんなのいろんな考え方や行動がとても新鮮で面白いと感じます。