交叉点24

明高24回生通信

20/May/ 2003
No.12 
Vol.12 2003
「濹堤追想」
武岡 徹 先生
「ちんぷんかんの50年」 吉川 忠明 君
「ボランティア」 田中(塚本) 順子 さん
「河合昭彦君との思いで」 山本 幸司 君
原田 晋一  君
「オンタリオ州トロント」
「交叉点ホームページ」
「武岡先生と歌う会」のご案内
「24回生メーリングリストに参加しませんか?」
『寄付と原稿のお願い』
編集局より

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「濹堤追想

                                武岡 徹

《春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が―――》時代を越えた魅力を保って、今も人々に親しまれているこの名歌は、明治30年代に作られたもので、まだ十分に江戸の情緒が残っていた隅田川の春の情景を伝えている。

三節で、《錦織りなす長堤に―――》と歌われた堤防のすぐ脇を、今では高速道路が走っている。それでも私はこの季節になると、一度は隅田川に行ってみたい不思議な衝動に駆られる。

私をそのような気分にさせるものは何か――と考えても、これといったはっきりした理由があるわけではない。ただ隅田川にかかる橋の名を思い浮かべてみると、白髭橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、少し下って永代橋など橋の名を口にしただけで趣があり、現実から離れて、芝居や落語の世界に入っていけそうな気がする。また文字を見た印象も味わい深いものがあり、その印象がぐんぐん広がって、果てしない虚構の中

にひきこまれそうな幻想に駆られる。橋ばかりではない。隅田川に流れ込む多くの堀割や、町名にも趣のあるものが多い。浜町河岸、小名木川、八丁堀、薬研堀、隠亡堀、柳橋、神田明神下、本所深川ときりがない。小説や歌舞伎、新派の舞台の名場面になった所も少なくない。言問橋の名の由来である業平の名歌《名にしおはば、いざ言問わむ都鳥 わがおもふ人はありやなしやと》は王朝時代と、一寸昔すぎるが、今年のNHKの大河ドラマでお馴染みの《忠臣蔵》(注、先生がこれをお書きになった頃の大河ドラマです)のクライマックス、大石内蔵助ひきいる播州赤穂の浪人四十七士が、元禄15年12月14日早朝、吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、見事主君の仇討ちをするが
、その吉良邸のあった所が、本所松坂町である。勿論これは実際に起こった事件であり、地名から考えた作り話ではないが、講談や芝居にかかると、この本所松坂町という名が実にぴったりで、これ以外の地名は考えにくい。

私の好きな作家、永井荷風の小説に「新橋夜話」「すみだ川」などがあり、日本橋生まれの谷崎潤一郎には「刺青」「秘密」があって、いずれも隅田川や下町に暮らす人達によって日々繰り広げられる悲喜こもごもの人間模様、業とも言える愚かさや可笑しさ、悲しみを興味深く描き出している。人間、この不思議なもの、人と人の関わりには、想像もつかない意外性があって、つきせぬ興味が湧いてくる。そのような気配や匂いを感じさせる場所がこの界隈には多く点在している。そして地名や橋の名がその想いを増幅させるに十分な力を持っている。

岡本綺堂作「平七捕物帳」は江戸の風物詩を読むようであるし、神田明神下といえば、銭形平次とガラッ八が目に浮かぶ。今も人気のある池波正太郎の「仕掛け人 藤枝梅安」が活躍するのもこの辺りだ。

「ひょっとするとニ、三日は帰れぬことになるだろうよ」と、いいおき、家を出た。昼すぎになって、梅安は、薬研堀の料理屋《万七》の客となっていた。薬研堀とは、むかし、両国橋の南、もと矢の蔵の入り堀があったときの名で、幕府の御米蔵の船入りになっていたこともある。これが明和のころに埋め立てられ、そこが両国橋界隈の盛り場の一つになって今日に至っている。江戸で名の通った商舗も多く、薬研堀不動尊を中心にして大小の料亭が軒をつらねてい、俗に《振袖芸者》とよばれる芸者も呼べるし、そのにぎわいは大したものだ。

隅田川河畔には、江戸の昔から大小の料亭があったことが文中からも読み取れるが、今も気のきいた店や粋なかまえの料亭が少なくない。そして隅田川界隈の、下町に暮らす江戸っ子達は、この川から受ける自然の恵みを愛で、味わう心が身についている。

「鬼平犯科帳」「剣客商売」など、池波さんの作品にはよく食べ物の場面が出てくる。「藤枝梅安」のなかにはこう書かれている。

佃の沖で漁れた白魚が平たい籠に盛られてい、小さな細い透明な魚の躰から籠の目が透き通って見えるようにおもえるほどだ。それに黒胡麻の粒一つを置いたような愛らしい白魚の目はどうだ。食べてしまう自分が憎らしいとさえ感じられてくる。おもんは、火鉢へ小鍋を置き、塩と酒で淡味の汁を煮たてた。

「こんなもんでようございますか?」

「どれ?――ああ、よしよし」

梅安は、それへわずかに醤油をたらしこみ、菜箸にすくい取った白魚を鍋へ入れた。こうさっと煮た白魚へ、潰し卵を落としかけて食べるのが、梅安の好みなのである。

江戸っ子池波正太郎の食べ物の好みが感じられておもしろい。

新幹線が開通してから、私は家内と毎月のように先生のお宅へ伺ったが、帰りに「鰻、食べにいきましょうか」と何度か新宿の《双葉》に連れて行ってもらった。先生は鰻が大好物で、いつかも「今日は梅原さん(梅原龍三郎画伯)に鰻を御馳走になるの」と嬉しそうにしておられたことがあった。厩橋を渡った隅田川河畔の町、本所生まれの先生は、今流行のグルメではなく、四季折々の豊かに出回る食材を楽しみ味わう方だった。結婚された頃、平目をさばいて、縁がわの刺し身などをだすと、山ノ手育ちの宗悦先生にはそれが珍しくて「うまい、うまい」と喜ばれたり、柳家を訪れる志賀直哉など白樺の同人や民芸関係の人達にも腕をふるって、お得意の料理を出されたそうである。

江戸っ子の好物、蕎麦、鮨、天ぷら、鰻が現在のような味になったのは、どうも明治になってからのようで、鰻の蒲焼も元禄の時代にはまだなかったそうだ。ただ隅田川が東京湾に流れ込むあたりは、淡水と海水とが交じり合う所で、そこには青柳、蛤、浅利、蟹、シャコ、はぜ、めごち、穴子など多くの種類の魚介が生息していて、それらは江戸の前の海で捕れることから《江戸前》といわれた。その江戸前の材料の持ち味を生かす料理法に創意工夫が重ねられ、今のような味に定着したのだと思う。

淀川と大阪湾もよく似た自然環境で、新鮮で豊富な食材に恵まれた事から、《くいだおれ》の大阪と云われた食文化が発達した。阪神間に生まれ育った私などは、殆どの食べ物は、関西風のものが口に合うが、鮨と鰻だけは東京のものが好きだ。《双葉》や《竹葉》で出される東京風の鰻は、背開きで一度蒸してから焼いたもので、あっさりとやわらかくていい。鮨は春先の青柳、小柱などが好物だが、大阪のすし屋ではほとんど口にする事がむずかしくて東京にかぎる。天ぷらは関西風がいいが、はぜや、めごちがないのがさびしい。

去年の春、浅草の吾妻橋から水上バスで隅田川を下ったが、築地の聖路加病院の対岸がきれいな公園になっていて、満開の桜の中に二棟の高層マンションがそびえているのがなんとも美しく、新しい隅田川の景観を発見した思いがした。どうしても行ってみたくなってホテルへ帰ってフロントに電話をいれ調べてもらった。翌日銀座から地下鉄に乗って月島で下車し階段を上って地上にでると、堀割や水門が横たわって橋のたもとの船溜まりには小さな漁船が何隻も、もやっていた。丁度通りかかった老人に、隅田川河畔にある公園を尋ねると、丁寧に教えてくれた。云われた通りに行くと、有名な住吉神社の社殿が見えてきて、そこが佃島であることがわかった。
佃島は徳川家康が、1590年初めて江戸に入った頃は隅田川河口の湿地帯で、もちろん名もなく、一面に芦の生い茂る土砂の堆積した州のような所だった。家康はそのような入り江を造成し、堀割を通して今の下町を造っていった。目の前に広がる江戸湾の豊かなる富に目を付けた家康は、難波の佃の漁民を呼び寄せ、土地を与え、江戸湾の漁業権を与えた。佃島のはじまりである。彼らの守り神である住吉さんも一緒に移ってきた。佃島の住吉神社である。昔の漁師町の佇まいを残した町並にある一軒の佃煮屋が目にとまった。中に入って声をかけると奥の方から返事があっていかにも下町のおかみさんという感じの女性があらわれた。きれいに並べられた中から、細切りのいか、小はぜ、あみなどをみやげに買って外に出た。

昼下がりの佃島は人気もなく、ひっそりと静かで、私は50年も昔の町にいるような懐かしさを覚えた。そして銀座と佃島、地下鉄に乗れば10分足らず、隅田川を隔てた二つの町が同じ時空に存在している事に、一瞬、私は何か異次元の世界に放り込まれたような錯覚に陥った。

 (平成11年5月に書かれた原稿です)


「ちんぷんかんの50年」

3年10組 吉川 忠明

論語に「我十有五にして学に志し、三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳に順う 七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)をこえず。」とありますが、今年、24回生全員が50歳を迎える事になりますが、これを読んでいる皆さんはどうでしょうか?40にして惑わずの境地だったでしょうか。

明高を卒業して30年余りになりますが、振り返ってみると私にとって30年は、一茶の俳句「盥(たらい)から盥にうつるちんぷんかん」の方がぴったり来ます。この盥というのは生まれたとき産湯につかり、亡くなると湯かんのお世話になると言う意味で、この間の人生をリズミカルなちんぷんかんと言う17文字で読んだものです。私の30年を振り返ってみると。

20代。「登山と実業の代」明高を卒業後、姫路工大に入学し、4年間は大学入試のプレッシャーから開放され、ここでの記憶はワンゲルで山登りばかりしていました。30kgを超える荷物を背負い、死ぬほど辛い上り坂でバテル寸前、共に辛いはずの先輩から「どや、おもろいやろ」という言葉をかけられたのですが、余りにもその意味のギャップにこの言葉が妙におもしろく心に焼き付いてしまいました。大学卒業後は関電へ入社して、仕事は地中送電線の建設設計でした。六甲アイランドへ供給する地中送電線の建設では埋立地の掘削で海水が吹き出したり、水道管を切断してしまったりしましたがその後、六甲アイランドが完成して、今多くのビルやマンションの電気が灯っているのを見ると自分が関わった事に充足感を感じます。なかなか充実した20代でした。(^_^;)

30代。「虚業一途の代」20代後半から情報システム部門に配置換えになり、社内システムの開発が仕事でした。COBOLプログラムの開発で連日の徹夜作業が懐かしく思い出されます。大型計算機のソフト開発が仕事の中心でしたが、当時パソコンが200万円ほどしていて、まだパーコン(ゴロが悪いですが雑誌では初期にこう呼ばれていました)と呼ばれていたころ、その将来性についての評価もしていました。

30代後半は子会社の関西テレメッセージへ出向し、ここでも情報システムの開発に携わり、当時はポケベルの爆発的な普及期だったので課員全員が日に4時間ほどの睡眠で1年間殆ど休み無しという途轍もない忙しさの毎日でしたが、人間睡眠時間がなくても体はもつものだナポレオンが数時間しか眠らなかったというのも体験してみてわかりました、アドレナリンが出続けていたのか誰一人病気にもなりませんでした。
ポケベルの絶頂期に関電に戻り、その後ベルリンの壁の様に崩壊していく会社を目の当たりにしました。時代は携帯電話全盛になりあっと言う間に会社は潰れてしまったのです。今思うと、あの頃の苦労は一体なんだったんだろう「爆発的に増えるものは衰退するのも早い」というのが今の心境です。また、20代に私が開発したソフトも全て再構築で更新されてしまい、ポケベル会社のソフトウェアも跡形も無くなっています。いま振り返って見ると30代の仕事の結果はこの世に何も残っていないのです、将に虚業だったのでしょうか?
40代。「動乱の代」関電に戻った後、再びシステム関係の仕事に関わりました。ここでは4年間LANの社内構築プロジェクトに関わりこの整備が終わると同時に、40代後半は関西テレコムテクノロジーという子会社に出向しました。今度はグループ関連会社のインターネットプロバイダーの事業立上げに携わり、いま流行りのインターネット事業の裏側を垣間見ました。インターネットサービスセンターの構築と新規サービスの開発とその運用をしていたのですが、世界中の不審者からアタックを受けていました。「ping of death」や「port scan」等のファイアウォールアタックを受けると警報メールを携帯電話へ自動転送するしくみにしているのですが、この様なアラートメッセージが連日鳴り止むときがありません。
またウイルスメールも月間数千通もあり、これを自動駆除するメールのクリーニングサービスも実施していました。メールやインターネットは便利ですが、裏方はなかなか気が休まる事はありませんでした。
新事業立上げも4年で一段落して、昨年の夏に出向解除になり再び戻ってきたのですが、電気事業の自由化の真っ只中で関西の経済不況に伴う地盤沈下と相まって電気事業の縮退と組織再編の嵐で10%を超える早期退職者の募集制度が今も続いています。30年間で平均3年〜4年でプロジェクトや新規事業への異動を繰り返し、40代を振り返ってみると動乱の時代でした。しかし、この間多くの人と知り合いになりこれが私にとって財産です。今流行りのインターネットについても私は表面をかじっただけですが、「良く知っている人を知っています。(^_^)」ので何でも聞いてください。

今年、これを読んで頂いている皆さんと50代を迎えるわけですがどの様な時代になるやら。。。。

「どや、おもろいやろ」という学生時代の先輩に山登りで苦しいときに掛けられた言葉が、仕事で辛い時にふと思い出されてきます。また、会社生活でも壁に突き当たった時に同僚に「どや、おもろいやろ」という言葉を使うと、皆笑い返し、不思議に元気づけられる言葉です。50代は「おもろい代」には違いないでしょうが、その中身は「盥(たらい)から盥にうつるちんぷんかん」です。


「ボランティア」

田中(塚本)順子

交叉点への投稿がとうとう回ってきました。

私はずっと専業主婦ですので、特に仕事は持っていませんが何かと忙しくしています。

10年来続いていることはフィットネスセンターに通う事と、育児ボランティアをしている事です。

子供が小中学生の頃はPTAの役員を頼まれ、ソフトボール大会や地域合同の運動会でリレーに出され走らされたのも、運動を続けていて健康でいられるからと思っています。

ボランティアといっても、無償と有償のボランティアがあり、私の場合は後者のほうです。これは大阪市にある5つのクレオ大阪(大阪市立男女共同参画センター)で主催するさまざまな講座を受ける人達の就学前の子供を預かります。子育て中の保護者の方が充実した時間を過ごせるように手助けをします。講座の中には“女性企業家を目指す”というものがあり、女性が強くなったなと感じます。保育をしていても男の子より女の子の方が強いのです。私が子育て中は必死で、今の若いお母さんのように講座を受ける余裕は無かったのですが、本当に積極的です。私が入っているクレオ大阪は一番初めに出来ました。

上記の子供を預かるのが主な仕事ですが、年に一度のフェスタ(お祭り)でいろいろと趣向をこらして、子供たちを1日遊ばせるための出し物を考えます。このボランティアに携わっているので、さまざまな人や出来事に出会え自分自身にとってもいい刺激になっています。子供が成長していく姿を見られ、子供の笑顔や元気が自分の気持ちを豊かにします。

今年始めた事は着物のリフォームです。若い頃の派手な着物を解いてジャンパースカートに仕立てなおしました。暇を見つけてベストやスカートも作ってみたいと思っています。

子育てが一段落した今、自分育ての為に、いろいろな事にチャレンジしたいと思っています。


「河合昭彦君との思いで」

3年9組 山本幸司

今年3月、河合君から原稿の依頼がきた。「ええっ、断ろう」と思いながら、断るわけにもいかず、なんとなく引き受けてしまった。引き受けたのはいいが、何を書いたらいいのやら。高校の同窓会に時折、河合君からの誘いがあり、時々、出席させてもらいますが、付き合いべたの私が、出席させてもらうのは、河合君との付き合いがあったればこそかなと、思うのでそのことを書こうと思う。

それは、関西学院時代のことである。河合君は現役で物理学科に、私は1年遅れで、化学科に入った。私は、何か自分が求めているものが違うような気がして、関学1回生に在学しながら、他の大学を目指そうとした。結局、「二兎追うもの一兎も得ず。」で失敗、いくつかの単位を落とす羽目になった。その結果、3回生から4回生に上がれず、留年という結果になった。そのことが河合氏と付き合う原因になるとは………。というのは、関学の理学部には物理学科と化学科があるが、物理学科の中に、数学コース、化学科の中に、生物コースがある。私は3回生から趣味の蝶採集を本格的に始めていた。4回生の卒業研究も生物コースの前木研究室(蝶の染色体の研究)。ここしかないと決めていた。

ちょっとここで、話は飛びますが、蝶の採集旅行で、浅田勝彦とのエピソードがあるので、紹介します。3回生の春休みに八重山諸島への採集旅行の際に、石垣島についたときに「うわっー、なんてきれいな海だ。」と思いながら、船を降りて行くと、どこかで見たやつがいる。よく見ると、浅田君である。「なにしてるの。」と聞くと、民宿の客引きをやってるとのことであった。そして同じ年の2回目の3回生の夏休みにやはり北海道に採集旅行に行った。そこでオンネトーのユースに宿泊したときに、一人のヘルパーがいた。それがなんと浅田君だったのである。北と南の果てで出会うとは、と、因縁じみたもの(実は浅田君と同じ生年月日昭和28年5月21日である。)を感じながら、話をしたものである。

話が横道にそれたが、話を元に戻す。卒研に選んだ研究室では、就職できないといううわさを聞いていたので、2回生から教職をとるための単位をとっていた。化学科の中での講座だけでは理科の免許しかとれなかった。1年多く行く羽目になっていたので、同じとるなら、数学の免許も取ろうと決めた。そのためには物理学科の数学関係の講座をいくつかとらざるを得なかった。そこに河合君との接点ができた。(それまでは、出会っても挨拶を交わす程度あった。)

河合君もすでに2留しており、次年度に、4回生にあがれないと、卒業できずに大学を辞めざるを得ない状態であった。その一番問題が、「物理数学」というわけの分からない講座(河合君が卒研に選んでいる数学コースの必須講座、私が取ろうとしている数学の免許を取るための必須講座)であった。河合君はこの講座にあまり出席していなく、半分あきらめかけていた。私は、そんなことを言わずに「一緒に勉強しよう。」と誘いました。そこから、河合君との付き合いが始まりました。試験の1週間か2週間まえから、河合君の家に何日か泊まりこんでの勉強会が始まった。夕食をいただき、夜遅くまで勉強会、朝食までいただき、そのまま、河合君の車で、大学までいくというような生活が何日かあった。疲れたときには、将棋をしたり、小椋佳のLP(確か、彷徨だった。小椋佳がまだテレビには出演していなくて、どんなかっこいい人なんだろうと思っていたころである)を聴いた。朝食で初めて、納豆をいただき、「こんなものよく食べれるな。」と思ったことも思い出す。(これは河合君には一言も言っていないが)

そして、この勉強会の結果、無事二人とも、この「物理数学」の単位をとることができ(私はぎりぎりであったが)河合君は、4回生になることができ、無事卒業もできたのである。

4回生のときに、河合君は学生結婚をし、その披露宴に招待してもらった。私の結婚披露宴にも招待しようと思っていたが、実現したのはそれから、16年後の40歳のときであった。

私は、今年で中学校の数学教師 (生物コースを取った異端派)として25年勤めさせてもらった。(2年間理科を教えたこともある) 新任で尼崎市立小田北中学校に3年勤め、明石市立朝霧中学校に12年、明石市野々池中学校に10年勤め、この四月から、明石市立高丘中学校に勤めさせてもらっている。転勤してきたばかりで、進路担当というたいへんな分掌をいただき、身の引き締まる思いをしている。

まだときどき、春先、春の女神と呼ばれる「ギフチョウ」の採集にいったりして採集は細々続けている。

河合君から電話がかかると、同窓会かなと、思う。いつも、忘れずに、電話をくれるので『ありがたいな。』と思う。ときどき、日程があわず、出席できないときがあり申し訳ないと思っている。

河合君の自宅と、勤め先が近くになった。

『河合、また飲みにいこう。』


「オンタリオ州トロント」 

原田晋一

 

最初の海外赴任地に故郷のような郷愁を覚える人がいると言います。私もその一人です。カナダのトロントで過ごしたのは1982年から1985年までの3年間で、これから書くことを観光ガイドとしてお読み頂くには情報が古すぎますが、本人は楽しみながら書いておりますので、軽く読み流して頂ければ幸いです。

<トロントスカイドーム>

皆さんご存知の通り、松井選手がデビュー戦で第一打席にタイムリーヒットを売った球場。ダウンタウンから近く、周辺の治安も悪くないという地の利では北米有数のよい球場です。試合が観戦できるホテルルームやハードロックカフェも中にあります。ブルージェイズがワールドシリーズを連覇した頃(90年代前半)は観客の入りもよかったが、最近はチーム成績と同様に観客数も低迷していると聞きます。

SARS騒ぎが収まれば、対ヤンキース戦観戦ツアーに行くのにはお薦めです。ホームチーム名のブルージェイはカラフルで敏捷かつ少々獰猛な肉食の鳥。ブルージェイズの帽子のマークはブルージェイの顔にカエデの葉があしらってあります。チームオーナーは地元トロント近辺の有力企業数社ですが、有力銀行CIBCが出資しているというのも他球団と比べてめずらしいと思います。(ただ、オーナーは80年代の情報なので今は替わっているかもしれません。)

<メイプルリーフガーデン>

NHL名門トロントメイプルリーフスのホームリンク。ダウンタウンの北にあり地下鉄駅から歩いて数分。ゲームを見に行ったのは1回だけでしたがスピードと迫力があります。ゴールポスト周辺には透明なフェンスがあるので、多分、外れたシュートに観客が当たるより数億円の宝くじに当たる方が簡単なのかもしれません。アイスホッケーはカナダの国技と国民は自負しているので、オリンピックでカナダが4位の2000年は街が意気消沈、2002年に金メダルを取ったときは大変な騒ぎだったと聞きました。

<ナイアガラ>

ご存知世界的名所。トロントから150km弱(90分)、単調な高速道路を走りつづけると着きます。春夏秋冬、もう少し細かく8個位に季節を分けても、それぞれに違う季節の趣があります。

<マルチ・カルチュラリズム(多文化主義)>

ニューヨークのよき猥雑さとエネルギーはありません。オンタリオ湖に面して広がる街並にかつての英国統治の趣を残しながら、あまりに近い米国ライフスタイルの影響を強く受けているクリーンで治安のよい町というのが平均的な第一印象です。建国以来200年余りの若い国で現在も各国から人々が移住してくるのに加え、カナダに移り住んでからのジェネレーション経過が若い2世3世あたりの世代が結構多くいます。私がいた当時は香港返還をひかえた状況でチャイナタウンは大きく膨張していましたし、またハングル文字が増えてくるのに呼応するかのように、新たにカナダに進出してきたヒュンダイ自動車のポニーが発売され、発売後1年位のうちに街を走っているのをよく見かけるようになりました。リトルイタリー、リトルアテネなどと呼ばれている地域も市内にありましたし、市内から車で約1時間のキッチナーというオクトーバーフェストをやる町もありました。多民族国家とはいえ、英国からの影響が強大なことは言うまでもありません。また、Aをアイと発音する連中に時々お目にかかるので、オーストラリアから来る人たちがいるのかと思っていたら、ここでそれらしい発音をするのはむしろ南アフリカ共和国から移ってきた英国系の人達の方が多いと聞きました。当時のアパルトヘイト政策を嫌って移ってきた人達ではないかと思います。

多民族で形成される国が、国の基本政策として各民族独自の文化を助成し、国民の一人一人が互いの文化を尊重し、その上にたってカナダ人としてのアイデンティティを形成するというのがマルチ・カルチュラリズムと私は理解しています。(多分この説明で本来の趣旨から大きく外れていないと思います。)現実には、トロントのように英国系がマジョリティとイニシアティブを取っている場合は各民族の固有文化の尊重と市民の融合の両目的は共に安定しているように見えます。これを国全体で考えると、ケベック州を中心とするフランス語圏との、一国家としての融合が難題であることは皆さんご承知のとおりです。

大東亜戦争時の強制移動の結果、戦後トロントに移り住んだ日系人とその子孫、及びその対比で新移住者と呼ばれる戦後から現在に至るまでに日本から移り住んだ人達がトロント地域全体の人口に占める割合は低いのですが、当然日本民族としてのコミュニティを形成します。日系文化会館がビルの1室ではなく、立派な1棟の建物として郊外にあります。当地で活躍する日系カナダ人から日本民族のアイデンティティと誇りを学んだことが今自分に生きているのか?常に自覚を持たなければとこれを書きながら思っています。

<食べ物>

平均的アメリカ東部の都市部と似たようなものと思えば大体当たっています。各国料理は大体食べられますが、ニューヨークのピンキリのピンには当然及ばないものの値段もよりお手頃かつカジュアルで行き易いです。

印象に残る3品:ほどよい脂がのったアトランティックサーモンのスモーク・サーモン、シャーロック(店名です)のローストビーフ、キングエドワードホテルのアフタヌーンティー。改めて書いて見ると、なぜか英国風になっています。しかし実際に行った回数は別で、多いのはすし屋や中華料理屋の方でした。

なお、ラバッツ、モルソンなどビールはそんなに悪くないと思いますが、カナダ産ワインはろくなものにはお目にかかったことがありません。オンタリオでは比較的温暖なナイアガラ(冬は滝も凍ります)あたりで作っているので多くは望めないのでしょう。
1994年夏に数日行ったのを最後に、トロントには行っていません。住んでいた頃は不満も多かったのですが、思い出すうちに是非また行って見ようと思うのが不思議なものです。駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

「交叉点ホームページ」

西海誠さんご尽力の「交叉点」HPで過去の交叉点24もご覧いただけます。何人くらいの方が見ていただけるか調べる意味もありますので、ぜひのぞいてアドレスを登録してください。掲示板もあります。

http://www.sbckobe.co.jp/haruka/default.asp


「武岡先生と歌う会」のご案内

音楽担当であった武岡先生が、「もし希望があるようなら、皆と一緒に唱歌などを歌う会をしてもいいよ。明高卒でなくても、皆の友達、家族をさそってみたら?」とおっしゃっています。この文章を書いている時点で三人ほどの希望者があります。

二十人ほど集まれば市民会館の小会議室を借りて、月に一回程度先生と一緒に歌を楽しみたいと思います。(参加希望、お問い合わせは河合まで)


「24回生メーリングリストに参加しませんか?」

24回生の世間話の場です。最近の話題は犬、コレクト物、花壇などです。皆様もご参加ください。アルバムも作成しています、ご覧ください。ヤフーのアルバム、もしくは下記の河合のHPのリンクから入って、ID「kosaten24」(半角)でご覧いただけます。


『寄付と原稿のお願い』

「交叉点24基金」の残額は4月1日現在で56.823円です。ある方の好意で印刷費は無料ですが、封筒、ネームシール、郵送費など1回の発行で約40.000円かかります。「交叉点」HPに完全移行しようという話もあります。印刷物として郵送し続けるのがよいのかどうか、「交叉点24」の役目も含めて考えなければならない時になっていると思います。ただパソコンをまったく触らない方も結構おられるようで、もうしばらくは今の形を続けようということにあいなり、皆様に寄付をお願いするしだいです。

1口2.000円で下記の郵便口座に振り込んでください。前回の寄付のお願いでは40数名の方からご寄付を頂きました。

郵便振替00930-3-241197 中村 守です

原稿を募集します、葉書、手紙、メールどんな形でも結構です、ふるって寄稿してください。

〒673-0845

明石市太寺3-2-3 中村守

Tel & Fax:078-911-7510