交叉点24

明高24回生通信

28/Jun./ 2004
No.13 
Vol.13 2004
「春愁を吹き消す清風」
小倉 隆興 先生
「同期会の御報告」 濱口 義信 君
中川 けい子 さん
「最近の私」
高月 孝之 君
「平成15年をふりかえって」
阪田 健吾 君
「西新町 今昔」

正木(海妻)小百合 さん

「51歳を迎えてー最近の私」
浜谷 透 君
「次期同期会に向けて」
中村 守
「24回生(準)公式連絡網」
事務局&編集局より
『案内とお知らせ』
『編集後記』 中村 守

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「春愁を吹き消す清風

                                小倉 隆興

陽光もまばゆい中に新緑も次第に色を増してきました。皆さん益々ご活躍のことと思います。

 私は悠々閑雅な境を夢見て職を辞して三年、己の足らざるを補うべく勉学に勤しんでいます。

それにしても、毎日流れくる現今の荒れた世界状勢を見るにつけ、日本の暗黒時代に学齢期を送らざるを得なかった自分の姿が思い出され、陰鬱になるのは年齢の所為でしょうか。          

しかし、それを一気に吹き飛ばし、明るい気持ちに変えてくれるのは、皆さんのあの活気溢れた笑顔と歓声です。皆さんの高校時代と同じ年齢の頃の私は、同じように自分の進路に向かってカー杯邁進していたでしょうか。今日はその暗い暗い方の話しをしましょう

私の学齢期はすべて戦争一途に追いたてられた時代でした。小学校時代は日中戦争。駅では出征兵士が列車に満載されて西へ。港では漁船ごと船主が召集され、日の丸を掲げて出港していく船団。かと思うと戦死者の遺骨を胸にした一団を先頭に、寂々と斎場へ向かう行列。六年時、日米開戦。卒業して東京の中学へ入学したが、第一回の偵察空襲や食糧不足で翌年やむなく家族の下に帰って転校。しかし学校では勉強どころではなく、食糧増産のため農地開拓と農作業に動員。三年になると同時に今度は軍需工場へ学徒動員。毎日二十四時間三交替で戦闘機の部品製作、油まみれになって機械と格闘。間もなく資材不足になったのであろうか、今度は山中での地下壕堀り。米軍の上陸を想定して、山を一方から反対がわに掘りぬき、銃砲を備える土嚢を積むのである。
その間、日本全土に空襲が始まり、また夜半に突然の艦砲射撃。さらにグラマン戦闘機による機銃掃射に追いまくられ、逃げ回ることもあった。間を縫って軍事教練が行われたが、当時の訓練は爆薬を背負って、戦車に見たてた荷車の下にもぐりこむのである。やがて終戦となり、焼け残った学校に帰って教科書もノートもない授業が始まったと思うと、またすぐに終戦処理に動員。山中から砲弾を運び出して、岸壁に山積し、米軍の上陸用舟艇に積み込んで、はるか彼方の深海に放棄するのである。銃を構えた米兵監視の中、うごめく中学生(現高1)の姿をどう想像しますか。

その後、戦後の混乱の中、失った時を何とか取り戻したい一心で、暗中模索、無我夢中の勉強。それが幾分の効を奏してか、大学三年時、突然、夜間高校の臨時講師を依頼され、学生服のまま教壇に立ってびっくり。一応、教師である筈の私が一番の年少。生徒はほとんどが復員兵と外地からの引き揚げ者。皆、実に真剣で、私も半年間一緒に勉強させてもらった。

 こんな暗い闇の過去が、現在の荒廃した世界状勢を背景に次々と脳裏に浮かび、沈み込んでいく中を、ふっと一条の閃光となって目覚めきせてくれるのが、あの明朗闊達な皆さんの笑顔、歌声、運動場での歓声です。今日もまた、陽光に輝く緑影を眺めつつ、つまらぬことを綴っている次第です。益々のご活躍を折ります。


「同期会の御報告」

濱口 義信

 1月3日に行われた同期会から数ヶ月が過ぎただけですが、その後も慌ただしい毎日に追われ、50歳の自分が18歳の頃にタイムスリップしたあの日が夢のように思えます。4年に一度の同期会。まずは参加してくださった諸先生方、同期の皆さんに改めて、心から感謝いたします。また、50歳の節目の同期会を盛り上げたいと思いつつも、忙しさの紛れ、私の取り組みが送れたために、皆さんへのご案内が遅くなり、日程の調整がつかなかった方々にはほんとうに申し訳なく思っています。

 ともあれ、今回の同期会は参加者が少なめということもあって、参加者一同ほんとうに盛り上がり、大多数のメンバーが同じグリーンヒルホテルのラウンジでの二次会にも参加してくださいました。さらに3次会でも尾鼻君に無理をお願いし、半数以上の人が彼の店を占拠するほどになってしまいました。尾鼻君、ほんとうにありがとうございました。こうして場所が変わるたびに隣にいるメンバーもいろいろ代わり、多くの人と話すことができ、とても楽しい時を過ごすことが出来ました。その中で、それぞれに高校を卒業後、様々なことに出会い、今も頑張っていることを知り、たくさんの元気を貰うことが出来たこともほんとうに嬉しく思っています。

 今回の同期会までの4年間に現職の明石高校の教頭であった阿南先生、同じく現職校長として母校の発展のために指導力を発揮してくださっていた大越智先生という二人の恩師を失ったことは、特に野球部、そして体育の道に進んだ私にとって非常にショックなことでした。お世話になったお二人のご恩に酬いるためにも、共に高校時代を過ごしたこの同期会で皆さんからいただいた元気をスタート台にして、次の4年間頑張りたいと願っています。

 最後に今回、頼りりにならない代表幹事にもかかわらず、きっちりと幹事の仕事をして下さった正木(海妻)小百合さん、亀野(下谷)裕子さん、藤井淳一君、また、案内状を作成、配布して下さった前代表幹事の坂口君、事務局としてすべてを取り仕切って下さった河合君を始めとして、強力な同期の仲間の皆さんに心からお礼申し上げます。次回は浜谷透君が代表幹事を引き受けて下さいました。4年後にまたお会い出来るのを楽しみにしています。


「最近の私」

3年6組 中川 けい子

ここ数年、皆んなのいろいろな思いのこもった「交叉点」を読みなから、もし今度私が原稿を頼まれたら、コーラスのことを書こうと、密かに決めていました。そしてついに「その時」がやってまいりました。

ということで、コーラスのことを書きます。

六甲アイランドでの生活も13年めになります。そして11年前に仲間作りをモットーに混声合唱団を数名で作ることになったのですが、結局残ったのは、たったふたりでした。現在魅力的な指導をする友人と迷マネージャーなる私でした。かくして「ふたりで一人前」というコンビができあがりました。

合唱団の名前は「一度つけてしまったら変更はなかなかできないから少々大袈裟な名前でもいい」という先輩のアドバイスのもと「六甲海の手混声合唱団」と名付けました。

わずかだった合唱団団員も今や30名以上となりました。全員が同じパートを歌う斉唱が二部合唱になり、それが混声三部合唱になり、今では混声四部合唱ができるようになりました。ささやかながら男性合唱にも挑戦しています。

最高齢は83才。平均年齢もかなり高くなりますが、歌っている本人達は(私も含め)いたって若いつもりでいます。人前で歌うことを何よりの楽しみにしている合唱団なので、本番が一番上手に歌えるという強みをも持ちあわせています。(決して上手とは言えないのですが…)

兵庫県の合唱祭、地域の高齢者の集いや老人ホームなどで歌っています。昨年は六甲アイランドにある神戸ファッション美術館5階のオルビスホールで10周年記念コンサートを開催しました。地域の方々の多数の来場により400以上ある座席がほぼ満席となる程の大盛況でした。明高の友人もわざわざ聴きに来てくれました。今年は5月と6月に、2回づつ小さなコンサートに出演する予定です。歌える喜びを満喫したいと思っています。
コーラスを始めた時、小学校一年生だった末娘は4月から大学生となりました。年を重ねるはずです。半世紀を生きてきた今、ふと振り返ってみると、若かった頃の記憶ははっきりしているのに、子育て中心で過ごしてきたからでしょうか、その後の記憶はぼやけているのです。これからはやりたいと思いながらできなかったことに「時」を費やし、そしてちょと「わがまま」に生きていくのも悪くないと思っています。

記憶も少しは残っていくことを願いながら…。


「平成15年をふりかえって」

3年4組 高月 孝之

3月の下旬に職場の机上にメモがあった。Dr.守からである。なんとなく悪い予感がしていた。時間から考えると診察中、悪いと思いながらも電話を入れた。「はい、中村クリニックでございます。」用件を伝えると、診察中にもかかわらず、Dr.守につないでくださった。とても気持ちのよい応対である。案の定、原稿の依頼であった。気持ちよさが吹っ飛んでしまった。仕事の関係で2年前の医師会の懇親会でDr.守を見かけた。彼もやがては学校医となりお世話になるだろう、と。何日かして、人事異動の内示が出た。3年間、医師会・歯科医師会・薬剤師会とのかかわりの中、お医者さんたちとも懇意にしていただいていた。Dr.守には、体が痛んだら診てもらおうと思っていたが、まだ持ちそうなでまたの機会にしよう。

さて、4月1日付けで市教委、体育保健課の学校体育係長を命ぜられ、着任した途端に大阪高槻市の団地内の遊具で子どもの指がちぎれるという痛ましい事故が起こった。学校にはたくさんの遊具がある。今回の事故と同型の遊具は市内にはないが、回転系の遊具はたくさんある。早速市内の幼稚園・小学校・中学校に、始業式が始まる前に新入生が入学するまでに再点検の依頼を出した。新学期早々子ども達が怪我をしないよう先生方の危機管理意識を更に高めていただくためにも通知を出した。初めての仕事でもあり、どこにどんな遊具がいくつあるのかも分からないまま、こちらも足を使って調査に乗り出した。二つの大きな事故を起こした明石市である。「またか。」といわれぬよう肝に銘じてがんばろう。

右も左もわからず、土曜日曜も返上で調べ、教えてもらいながらのこの2週間。この原稿も堪忍してもらおうかとも思いながらも、いやいや書いているところである。せっかく書くのだから、後日読み返して、「あー、あの時こんな事が話題になったな〜。」と卒業アルバムのような懐かしさを感じてもらえればと思い、しょうもないことを少し書いてみよう。

昨年はいろんなことがあった。春には、SRAS騒ぎで帰国してきた子ども達の受入れに右往左往した。昨年の年末をはさんで再来を懸念していたら、なんとやってきたのは、鳥インフルエンザでした。人には大きな被害が出なかったのも、SARSやインフルエンザに備えてうがい・手洗いの励行を呼びかけていたからか。また、ワクチンがなくなるほど今までになく、多くの人が予防接種を打ったからだろうか。案外、昔ながらのうがいと手洗いが感染症に対して適切な防衛策ではないだろうか。そんな中、学校給食で使用していたアメリカ産の牛肉がBSE騒ぎで輸入禁止、挙句の果て、牛丼が消えてなくなるという異常事態まで起きた年である。

そして、忘れてはならないのが18年ぶりの阪神タイガースの優勝であろう。関西人は大いに盛り上がったのではないだろうか。何を隠そう、野球が嫌いな私でも阪神ファンになってしまったのだ。大学の同期であった近鉄バッファローズ(現大阪近鉄)の藤瀬がいたので、「どこのファン?」って聞かれたら「近鉄」とだけ答えていた。勿論野球にはそんなに興味がなかったのでそれ以上の話はしない。また、しても野球を知らないことがばれてしまう。そんな私が、阪神優勝の一役を担った藤本選手を小学校時代に教えた縁もあり、すっかり野球ファンになってしまった。

24回生の一人である伊与田君が3年か4年で担任をした事がある。あの頃は、彼の実家が営んでいる焼き鳥屋へ仕事帰りに二人でよく行ったものである。プロの世界でレギュラーポジションを勝ち取り、打率も3割を維持するというすごい事を成し遂げたことをたいへんうれしく誇りに思う。そんな彼も小学校時代にソフトボールで全国優勝し、将来はプロの選手にとの夢を持って中学校の野球部に進んだ。中学校3年間で練習試合を含め、1勝もできなかったと聞く。
でも夢を持ちつづけ名門育英へ進んだ。念願の甲子園へキャプテンとして出場。自らの暴投で負けてしまったことも教訓にし、亜細亜大へと進学。志半ばで腰を痛め、もう野球をあきらめようとまで思ったことがあったらしい。それでも、子どもの頃から夢に描いたプロ野球選手という、夢を現実のものにした彼の不屈の精神に敬意を表したい。

明石市の教育の指針に「子どもたちに夢と生きる力を」のキーワードを掲げている。夢に向かって一生懸命努力する姿、夢があるからこそ、それを実現しようと努力できる。夢があれば、どんな困難にも打ち勝つことができるんだ。藤本選手はそのよいお手本かもしれない。今、教育界は揺れに揺れている。明石の子どもたちが自分の夢に向かって努力し、夢を現実のものにできるよう、親として、指導者として見守りつづけたい。

4月2日の開幕戦から6試合、彼の姿はなかったが、甲子園に帰ってきたら、去年の優勝時のメンバーではないか。キャンプ、オープン戦からマスコミの過剰なまでの報道にも、“あせらず、くさらず、こつこつ”努力してきた彼の姿を子どもたちにぜひ伝えたい。

今日も教え子の活躍をビール片手に応援している、二人の愛娘と一人の愛妻と暮らすおっさんでした。

長々とお読みいただきありがとうございました。


「西新町 今昔」 

3年8組 阪田 健吾

 

この度、昨年11月に整形外科リハビリクリニックを開院いたしました。そのために、久々に明石の西新町に帰ってまいりました。私は24回生ですので、卒業して30年あまりになります。職業がら大学卒業後も研修医として、また病院に就職してからも周辺を転々としておりまして、南は洲本、西は龍野、北は和田山、東は高槻と巡っておりました。今回は、久々に地元の明石の西新町に帰ってきましたが、その印象を話します。

30年というのはとても大きなブランクでした。この1月3日に24回生の同窓会がありましたが、改めて30年という年月を感じました。同窓生との交流があまりなかった影響もありますが、ほとんど名前と顔が一致しませんでした。それに引き換え恩師の先生方は皆おかわりなく、元気で矍鑠とされておりました。特に高校三年生当時の担任であられた角先生は印象が全く変わりなく、今なお私の消息を心配されておられました。30年もの間何の連絡と御礼をせずに過ごしてきた事に今この書面を借りてお詫びいたします。

話を戻しますが、この度開院しました西新町という所は、明石川の西岸の静かな、古い町です。私の生家もあり、高校卒業まで過ごした町でもあり、特に幼少時代はこの地域でよく遊びました。明石川は遊びのメインステージの一つであり、魚採りは勿論、泳いだり、筏を組んで明石海峡まで出ようと試みたこともありました。現在の明石川にはそんな子供達の姿は見えませんが、相変わらず静かに、豊かに流れ続けています。又、西新町の実家の裏の小さな公園があります。ここは狭いけれど、幼少児にとっては格好の野球場でした。一度だけ球が飛びすぎて公園裏にあるお家の2階の窓を割りました。つい最近そのお家の方が患者として来院され、あらためてお詫びしました。何の変哲もない児童公園ですが、50年前に植樹された桜が数本あります。50年の樹齢を誇る太い幹に支えられ、今年も優美で重厚な桜が咲き誇りました。
王子小学校の南にもちょっとした公園があります。当時は紙芝居のおじさんや、いかがわしいゲームを携えたおじさんが自転車でやってきて、よく駄菓子を買わされました。今や公園にそんなおじさんは現れませんが、なお緑豊かで、高齢者の格好の散歩の場所になっています。西新町の街並にも駄菓子やが何軒かあり、くじ引きをしたり、今思えばいかがわしい駄菓子を食べたり、意地悪なおばあさんのいる店ではつり銭のことで喧嘩もしました。そんな駄菓子の店はさすがになくなりましたが、今なお当時の風情そのままの街並が点在しています。

この度開院しました建物は三井住友銀行西新町支店を改築した建物ですが、幼少当時はまだ神戸銀行の時代でして、他の銀行がそうであったように、2階建ての灰色の薄暗い建物でした。この銀行も遊び場所の一つでした。当時の子供の野球の主流は素手で柔らかいボールを打って、素手で捕る簡素なものでしたが、丁度建物の高さが手頃であったこともあり、ボールを素手で打って、屋上まで届くかどうか競い合ったものでした。当時の薄暗い外観は一新されましたが、歩道にはりだした銀行の看板(大きな看板で、当時はこの地域のランドマーク的存在であった)はそのまま使っており、面影は残っています。

このように、まだまだ40年前の風情の残っている町です。今でも、明石川に遊ぶ子供がいたり、意地悪な駄菓子やのおばあさんが出てきたり、紙芝居のおじさんが登場する錯覚に陥る位です。この地域の住民も昔から住まれている方が多く、患者として来られてもよく当時のことをお話しされます。こんな昭和中期の面影にあふれる町にどっぷり浸りながら、人情豊かな人々に触れながら、残りの人生を悔いなく歩んで生きたいと思っております。


「51歳を迎えてー最近の私」

正木(海妻)小百合

 私達24回生も50歳になりました。そして私はもう51歳を迎えてしまいました。無事51歳を迎えられて本当に嬉しい(?)事だと思っています。あっという間に今に至った気がしますが、思い返すとその一年一年に重みがあり、いろいろな事があったと思います。

 私は明高を卒業し保育系短大に入学しました。その年に人生最大の出来事とも思える母の死に直面しました。あまり突然の事で実感もなく、ただ母がいなくても頑張らねばと思いながら暮らしていた記憶があります。この事は私、私の家族の生き方を大きく変えてしまいました。

 その後短大を卒業し明石私立幼稚園に11年間勤め、その間に結婚し長女・長男が生まれました。長女が幼稚園入園の時に仕事を辞め、2年後に次男が生まれました。子供が2人になってからの共働きは時間もなく、仕事も子育ても中途半端で大変でした。3人目は5歳離れてできたので、一から子育てと思った時、次々と病人が出てしまいました。その後10年間は共働きほどではありませんが、家をあける事も多く、また時間に追われていました。今は元気になりましたが、主人が病気になった時は3人の子供をかかえてどうなるかと思いました。

 私達の年代は今から親の看護や介護を考えねばと思っていらっしゃる方も多いと思いますが、私の場合は随分早く、ほぼ終わってしまいました

 結婚して西明石の明南高校近くに住んで、もうすぐ25年になります。今は長女も結婚し、ほっとしています。大学4年生、高校2年生の2人の息子が独立してくれるまで、あともう一息と思っています。高校2年生の息子は今、明高生で、24回生の佐伯先生にお世話になっています。
 子供も成長し、時間もでき、今、私は自分の趣味のお茶とお花の稽古を中心にして動いています。家族に協力してもらって、というより巻き込んで、自分の稽古に出かけたり、ほんの少しだけれど家でも教えています。娘のような若い方から80歳90歳の先生方や、先輩方に出会え、いつも良い刺激をいただいています。

 勉強しなければならない事も多くありますが、無理せず自分なりにできればと思っています。

 51歳の私は、母より数年長く生きています。今、家族が皆元気で暮らしている事を、しみじみありがたく思っています。これからもいろいろな事があると思います。どんな時にも一杯のお茶をいだけることに感謝できたり、一輪の花が美しいと感じられたりできたらと思っています。


「次期同期会に向けて」

3年8組 浜谷 透

 明高24回生の皆さんお変わりありませんか。 8組の浜谷です。「交叉点」は、いつも楽しく拝読していますが、投稿は今回が始めてです。今年の同期会に出席された方また、「自彊会だより」を読まれた方はご存知だと思いますが、2008年北京オリンピックの年の同期会代表幹事に指名されました。今年の同期会の受付でいきなり『別室』へ案内され(悪いことした覚えは無いし、何かいい物くれるのかなあ)とドキドキしながらついて行くと、浜口氏から事のいきさつを説明され(会費をたまに納めている以外同期会のお役にたったことがない)との思いで、引き受けました。当日、数名の方に次期幹事をお願いしましたが、もっと多くの方に協力を頂かないと成功しないのでその時は快く引き受けていただきたいと思います。実際に活動を始めるのは、1年前ぐらいからと思いますので、まだ2年半ほどありますが、その間、何時ご指名があるか分かりませんので、緊張してお過ごし下さい。特に私と深い関係?のある方は要注意です。話は変わりますが、5月の初旬に父が他界しました。くも膜下出血を起こして40日の入院の後でしたので、突然ではなかった訳ですが、前日まで元気そうだったので戸惑いました。皆さんの中にはすでにそういう経験をされた方も多いかもしれませんが、私にとって葬儀は、40年も前の祖父以来の出来事で正直疲れました。又その後の様々な手続きに今も追われています。何と膨大な書類の数々を用意しないといけないものか。父は几帳面で資料をきちんと残してくれていたので助かっていますが、いいかげんな自分に置き換えたとき、子供は本当に苦労するだろう。自戒の日々ですが、もうそういうことに真剣に向かい合わないといけない年令になったことを自覚させられた出来事でした。


「24回生(準)公式連絡網」のご案内

メールによる連絡網を作りました。明高に関すること、自彊会に関すること、同級生に関することや、自分が知らせたいことなどを、お互いに配信します。月1-2回の配信を目指します。個人の誹謗中傷、宣伝などがあると困りますので、内容は中村がチェックをしてから配信します。

宛に御自分のメールアドレスを伝えてください、もちろん携帯でもPCのアドレスでも結構です。

この連絡網は下記の河合明彦君主催の「交叉点ML」とは別物で、短い事務的な連絡を主にしたいと考えています。


「24回生メーリングリストに参加しませんか?」

 おじさん、おばさん(24回生です)の世間話の場です。時々明石でオフ会(つまり飲み会)なども開催します。

下記河合宛にメールを下されば、「招待状」をお送りします。


―編集後記―

 大河ドラマ「新撰組」の視聴率はいまひとつ振るわないようですが、私は毎週楽しく(見損なったら土曜日の再放送を)観ています。近藤役の香取慎吾は今ひとつですが、土方役の山本耕史、山南役の堺雅人、芹沢役の佐藤浩市らの演技には関心しています。今の放送分では外国人を見れば切り殺そうとする攘夷派が、日本人のほとんどです。しかしこれから馬関戦争や薩英戦争で、ドカドカと大砲を打ち込まれ、鹿児島市内などは灰燼に帰し、やっと我彼の力の差に気づき、時代は開国に突き進んでいきます。

 昔も今もとことん困らないと、判らない、動かないのが日本人のようです。

 千数百兆円はあるといわれている国・地方の借金、遅々として進まない年金、医療、公団などの改革。いつかカタストロフィーが来て、やっと次のステップに進めるような気がしています。

 まだしばらくは「交叉点24」を発行していきます、皆様の原稿をお待ち申し上げます。

編集 中村 守

〒673-0845 明石市太寺3-2-3

Tel & Fax 078-938-0477

E-Mail:Drmamoru@aol.com