交叉点24

明高24回生通信

28/Jun./ 2005
No.14 
Vol.14 2005
「 人口問題で、日本の将来を憂うる 」
中島 忠幸 先生
「 明高卒業生 」 高徳 雄三 先生
3 年 10 組 卯月 準二 君
「 海外赴任 」
3年5組 坂本 喜代子 さん
「 時流−ときのながれー 」
3年 8 組 今井 武 君
「 お久し振りです 」

3年8組 森岡 進 君

「 マラソン 」
3年1組 幸島 ( 関井 ) 良江さん
「 未だに自分探し 」
3年3組 野田 昌宏 君
「 自己紹介のような、日記のような 」
3年7組 太田(畠田)良子 さん
「 再就職 」
事務局&編集局より
『 事務局通信 』
『編集後記』 中村 守

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「人口問題で、日本の将来を憂うる」

中島 忠幸

 

24 回生の皆さん方は今丁度、油の乗りきった年代を迎え、充実した毎日を送られていると思います。ところが私達は平均寿命を目前にして、如何に有終の美を飾るのを考える頃になりました。私も高校の教員生活を 39 年間つとめ定年退職し、地元の大学で入試や学生募集を行う中で、学生数の減少を目の前みにして、これからの大学の生き残りをどうすべきかについて真剣に考えてきました。

高校3年生の 18 才人口は、 1970 年に 270 万人であったのが、 1992 年 205 万人に、 2000 年には 150 万人になりました。更にこれからも減少しつづけ 2050 年には 67 万人位に減少すると予測されています。今後大学はサバイバルに打ち克たねば…と大学関係者は心配しています。

 

 

超えたと言っていましたが、現在(H 16 年9月末)では 23,038 人に伸びています。健康で長生きなら喜ばしいのですが…

に出生率を調べますと、 1947 年 ( S 29 年 )4.57 人→ 1970 年 ( S 45 年 )2.13 人→ 1975 年 ( S 50 年 ) 初めて 2.0 人を割る→ 1990 年 ( H 2 年 )1.57 人→ 2003 年 ( H 15 年 )1.29 人と驚異的に減少していきます。この調子で減少しますと、現在の我が国の人口は 1 億 2,700 余万人の来年度がピークとなり、それ以後は減少に転じ、 2050 年には 1 億 50 万人に、 100 年後には 7500 万人ぐらいに減少するのではないかと心配されています。

 
 

ところで、最近の日本人の高齢化は、医療の進歩、食の変化、健康意識の向上などで 65 才以上の人口比率もどんどん伸びています。その変化の状態を示しますと、

1950 年… 460 万人(全人口の 4.9 %)

1970 年… 739 万人(全人口の 7.1 % )

2000 年… 2187 万人 ( 全人口の 18.2 % )

2004 年… 2431 万人 ( 全人口の 19.4 % )

2020 年… 3334 万人 ( 全人口の 26.9 % )

2050 年… 3500 万人 ( 全人口の 35.7 % )

へと急速に超高齢社会になってゆきます。後期高齢者( 75 歳以上)の人数も 1950 年に約 100 万人 ( 全人口の 1 % ) が、 2004 年に 1000 万人 ( 全人口の 8.3 % ) を突破し、 2050 年には約 2200 万人 ( 全人口の 22 % ) に膨れ上がるだろうと言われています。外国と比較しても日本の高齢化率の上昇は相当急激で対策が間に逢わない状態です。

 

高齢化と少子化を対比しますと、 1950 年… 65 才以上約 400 万人、 14 才以下約 3,000 万人であったのが、 2000 年には 65 才以上 2,187 万人、 14 才以下 1860 万人、そして予想では、 2050 年には 65 才以上約 3500 万人、 14 才以下 1000 万人となります。

勤労者人口と高齢者人口についても同じ様な事が言えます。現在 3.9 人で一人の老人を支えていますが、 30 年後には 2 人で1人の老人を支える、 50 年後には 1.5 人で一人の老人を支える事になり、支えきれなくなるので若い人を増やす事、即ち、出生率の低下を何としてもくい止めなければ日本の将来も心配です。

そこで人口減の対策を考えねばなりません。現在 25 才〜 29 才で結婚していない者の割合が 25 年前の約 20 %強であったものが、 50 %を超えてきています。結婚しない人や結構しても子供をもたない、或いは一人っ子などのこの今の現状を何とか変えていくべきだし、子供の幼稚園から大学までにかかる学費全般の高額すぎるのをおさえていく事を、当事者にも考えてもらいたい。政府もエンゼルプランや、新々エンゼルプランなどで保育所の増設、児童手当の増額、仕事と子育ての両立支援、男性の育児休業の数値目標、父親を含めた働き方の見直しなど、次世代育成支援対策推進法など、色々と考えてくれていますが、私達としても何かできる事をしていく必要があるのではないか。

 

平均寿命の変化も、日本は世界一長寿国になってきています。

1900 年 ( M 33 年 ) …男 37.99 才、女 39.24 才

⇒ 1925 年 ( S元年 ) …男 44.82 才、女 46.54 才

⇒ 1950 年 ( S 25 年 ) …男 60.8 才、女 64.9 才

⇒ 1998 年 ( H 10 年 ) …男 77.16 才、女 84.01 才

そして、 2004 年 ( H 16 年 ) には、男 78.36 才、女 85.33 才になっています。更に推定では、 2040 年には男 83.7 才、女 92.5 才になるだろうと言われます。

100 才以上の老人の数も、 5 年前に 1 万人を

 

 

今後も学習塾や学習参考書など関連企業の低迷、産婦人科や小児科の経営難、また労働力の減少から外国人労働者の受け入れ、経済成長の低下、そして逆三角形型の人口形態では更に消費税のアップや国債の大量発行などの次世代に課題を残す諸問題を含んでいます。お互いみんなが智慧を出し合い、明るい日本をつくるため、もうひとふん張りをしてゆこうではありませんか。

 
 

「 明高卒業生 」

高徳 雄三

4月8日、ただいまから明石市立朝霧中学校第 36 回入学式を行います と入学式をリードしたのは今春着任した新任教頭の山口浩一郎君でした。来賓席からは明石高校の校長代理として佐伯総務部長が紹介されていました。教育界で活躍する 24 回生との偶然の出会いでした。ちなみに朝霧中学校梅谷初子校長は 17 回生です。昭和 36 年私が母校に帰って来たときの1年生が 16 回生で、今年の入学生は 60 回生ですからもう 44 年が経ちました。まさに光陰矢のごとしです。

1月3日には私が担当学年だった 27 回生の卒業 30 周年記念同窓会が開かれ、私も他の先生方と出席しました。また1月 15 日には、最初の担当学年である 16 回生の野球部の諸君が還暦ということで集まりました。今年ジャイアンツの二軍ピッチングコーチに就任した小谷君がぜひ出席したいと言っていたのですが、横浜球団の用務が入り残念ながら欠席ということになりました。

 

 

ところで私は6回生ですから今年古稀を迎えました。相変わらず地域自治会の世話の他に、スポーツクラブ 21 朝霧の理事長、さらに、多くのプロ野球選手を輩出している中学生の硬式野球の組織ボーイズリーグに新加盟した兵庫神声ボーイズというチームのコーチに引っ ぱり出されました(兵庫神戸ボーイズでホームページを検索してみて下さい)全部ボランティアですが、時間的に全く多忙です。好きでやっているのだろうと冷やかされていますが、お陰さまで見かけは元気にしています。

 
その小谷君についてはおもしろい話があります。今やプロ野球界で若手投手育成にかけてはナンバーワンとの評価があるのですが、以前にジャイアンツから誘いがあったそうです。その時は 自分はジャイアンツをやっつけるピッチャーを育てるのが目標だと断ったと言っていました。それなのに今回は何故と聞くと、横浜の公式戦が終わった晩に電話が入ったそうです。どうして気が変わったのか詳しくは聞きませんでしたが、ジャイアンツの誘い方の巧みさは特別だと言っていました。

皆さんも熟年パワーで頑張って下さい。またどこかでお会いするかも知れませんね。

どうぞお元気で。
 
 

「海外赴任」

卯月 準二

 

第 2 回目の同窓会出席以来、音信不通者名簿にあがっていた卯月(旧 3 年 10 組)です。

そう、あれからしばらくは、大阪で勤務していましたが、工場が地方に移り、また、グローバル化の流れで海外に移りと、それにあわせて、私自身も九州佐賀県、米国ケンタッキー州と移り、今はタイのバンコクで仕事をしています。

そのため、同窓会にも出席ままならず、通信も途絶え行方不明者となってしまいました。昨年たまたま、インターネットで明石のことを見ていたら、明高 24 回生通信を見つけ、大変なつかしく、河合君や大西君に連絡を取った次第です。

大阪、米国勤務以外は、すべて単身赴任。単身赴任暦もあわせて 10 年になろうとしています。
 

 

ダービーは、ルイビルのチャーチルダウン( Churchill Downs) と言う所で開催されます。米国中や世界中から競馬ファンが集まります。

フライドチキンは、ご存知カーネルおじさん。ケンタッキーフライドチキンの第 1 号店がルイビルにあります。

男にとっては、競馬あり、酒あり、酒のつまみありのいいところでありました。

こういう場所へ、 1997 年(家族は 1998 年)移り住んだのでした。子供たちは、そのとき高1、中1、小4だったか。日本人学校がなかったため、全員現地の学校へいかせました。子供たちは、最初の 6 ヶ月間はまったくコミュニケーションがとれず、学校へ行ってもただ座っているだけ。

それでも、学校は分厚い教科書の 40 ページ分を読んで、意見を書けという宿題を出すんです。もちろん英語。子供たちはできないため、最初は私が必死で取り組みました。

 
 
タイに来て、この 6 月で 4 年が経ちます。家族(女房、子供 3 人)は大阪茨木市に住んでいますが、年に2、3回しか帰らないため、父親のありがたみや存在価値を忘れているところがあります。(子供の紹介;長女=大学4回生、長男=大学2回生、次男=高校3年生) しかし、 3 日で Give Up 。(私は、中学、高校と英語は苦手。もっと勉強すればよかったと反省)学校に言い訳に行ったり、急遽 Tutor をお願いしたり、とにかくたいへんでした。 環境が急激に変わったためか、ストレスのためか、風土的な要因なのか、長女、長男とも体に発疹ができる病気にかかりました。
 
さて、そんな愚痴はともかく、ここでは、私たち家族がまだ仲良く暮らした米国ケンタッキー州のことを書きたいと思います。 このときは女房とも、つれてきたのは失敗だったかなと思ったものでした。
 

米国に赴任したのは 1997 年で、場所はケンタッキー州バーズタウン( Bardstown )という町です。地図のある人は、地図で探して見てください。ケンタッキー州の一番大きな都市ルイビル( Louisville )から、南へ下がったところにバーズタウン( Bardstown )があります。人口 9000 人くらいの小さな町でした。

バーズタウンは、米国でも古い町の部類に入り、町の中心に裁判所の建物があり、その前に西部劇に出てくるような家や店が並んでいます。米国ですから古いといっても 200 年前の建物です。

ジェシージェームス(米国西部開拓史の有名なアウトロー=ギャング)が泊まった古い宿とかがあったりします。(残念ながら、この宿は 1999 年漏電で火災が発生し、 2001 年に再建されました。)

また、この町は、作曲家スチーブンフォスターが活動した町でもあります。「草競馬」や「 My Old Kentucky Home 」などを作曲したあのフォスターです。「 My Old Kentucky Home 」は、この町のフォスターのおじさん( John Rowan )の家で過ごしたことを作曲しました。この家は公園( My Old Kentucky Home State Park )の中にあり、観光の名所となっています。夏には、同じく公園の中にあるフォスター劇場でミュージカルが行われます。

 また、バーズタウンは、バーボン( Bourbon) の町で有名です。近くに Jim Beam や Maker's Marks のバーボン工場があります。古くからの町なので、私たちのような新参者は少なかったのですが、住民はとても Friendly で、散歩をしていると必ず、「ハイ!」と声をかけてくれる人たちでした。

気候は、日本と同じように春夏秋冬と四季があります。大きな山はなく一面 Blue Grass が生い茂る美しい土地でした。台風はありませんが、トルネードが発生しやすく、どの家も地下室を持っています。私たち家族が住んでいた家も地下室がありました。前と後ろが芝生の庭で(もっとも両隣、後ろの家すべて芝生です)、 500 坪以上の敷地でした。それで価格は、日本円で 900 万円くらい。えーっと、日本では、今の茨木の土地が 60 坪であの価格・・・。ローンがあと・・・。

日本の土地の狭さと物価の高さを実感しました。

それはさておき、かのリンカーンが生まれた場所もバーズタウンから南へ、車で 30 分くらいのところ( Hodgenville) にあります。ここも公園のようになっていて、リンカーンの生まれた家のレプリカが観光の名所になっています。

さて、ケンタッキーで皆さんが思い出すのが、ケンタッキーダービーとフライドチキン!

でも、 6 ヶ月が過ぎるくらいに発疹も消え、代わりに友達もでき、先生が何を言っているか理解できるようになったみたいです。親も子も初めての海外生活で、とにかく大変でしたが家族の絆が深まった時でもあります。夏休みとか、クリスマス休暇には、車でカナダに行ったり、ワシントンに行ったり、マイアミに行ったりと、モーテルに泊まりながら広いアメリカを経験することができました。女房は、キャンピングカーを借りて、アメリカ大陸横断したかったようですが、それはちょっと断念。

そうして3年間の米国生活を終え、長女は高校卒業、長男は中学を卒業、次男は中学 1 年生を経験して帰国。子供はみんな、数学、理科、社会などはさっぱりですが、英語だけは理解できる程度になって帰ってきました。

異国の地での生活は、いろんな面でたいへんでしたが、住めば都で今思えば貴重な体験でした。

親の都合とはいえ、子供たちにとって海外生活が良かったのか、悪かったのかわかりません。

しかし、私たちの子供のころは、いい点とって、いい学校に行って、いい会社に就職すれば、

それなりの生活ができる、ということを植え付けられた世代。それが今では、終身雇用が崩れ、リストラと能力主義というのが導入され、リストラ対象者は、人件費の高い 40 代後半、 50 代の私たちの年代なのです。

そういう、価値観がすぐに変わる世界なので、子供たちには、今回のことを良い経験をしたと思って、自分の糧にし世間の価値観にとらわれない、自分が納得できる人生を歩んで欲しいと思います。もっとも、親の心配をよそに、子供の世代はファミコン世代ですので、案外リセットしてあっけらかんとしているかも知れませんけれども。

我々は我々の世代で、「巨人の星」や「あしたのジョー」で育った世代ですから、たとえリストラされても我慢して耐えることができる強さがあるんです。そうですよね。

私は、米国から帰ってすぐ、タイへの赴任を命ぜられて現在にいたっています。タイでの話は、 kosaten24 のメールでときどきお話していますので覗いて見てください。東南アジアも食べ物はおいしいし、ここも住めば都です。

 次回の同窓会には、ぜひとも参加し、皆さんの懐かしい顔を拝見したいと思っています。

お会いできる日を楽しみに、少々中年ぶとりぎみな体を鍛え直し、健康を維持していきたいと思います。
 
 

「 時流−ときのながれー 」

坂本 喜代子

クレイフラワーはパンフラワーやクレイアート系にはない、鮮やかな色彩と生花のようなみずみずしさが特徴です二十七年勤めた会社を辞めて早や二年が過ぎた。縁あって今の仕事に就いて一年半。

それまでの生活は、帰宅するのが夜の 10 時を超えることが多かったが、現在は 6 時半には 食卓に向う毎日を過ごしている。生活は、変えようと思って変わる場合もあるが、時として自然の流れで変わっていくことがある。私の場合はどちらであったのか?
 

 

 

きっと両方が交じっていたのだと思う。

今は以前とまったく違った職場を経験できる幸せを感じている。 時間の余裕が新しい趣味に目を向けさせた。月に 1 回、クレイフラワー(樹脂粘土の花)の稽古に通い始めたのは二年前。その後、道端に息づく草木や花への関心が高まった。

目下、 5 月下旬の発表会に出展する作品づくりに余念がない。だが、さすがに徹夜した翌日は眠い・・・。これからも “ 今 ” を大切に、ゆっくりと時を刻んでいきたいと思う。

 

(本文には末尾に坂本さんのメールアドレスが掲載されていましたがwebでの公開という事で割愛させて頂きました。)

 

 
 
 

「 お久し振りです 」

3年 8 組 今井 武

みなさんお久し振りです。「 1-5 」→「 2-3 」→「 3-8 」の、今井 武です。順一君とは別人です。

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大阪市内の製鉄会社に勤めて四半世紀。リストラによる中高年パージにも生き残った結果、職場ではとうとう一番の古株に。神戸市北区からの遠距離通勤を厭い、数年前から会社近くの独身寮の一部屋を占領して、週に数日泊り込む生活を始めました。夜 10 時すぎまで若い技術屋の残業に付き合って、車で送ってもらうと、丁度夕食の最終に間に合う。食事は驚くほど質素だが、育ち盛りを過ぎた身には、かえって身体に良いようです。寮はバブルの時期に立てたワンルームマンション風の最新設備でなかなか快適。独身の作業職と、出向の単身者用の施設ですが、これくらいの我が侭は言える立場になりました。

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寮で朝7時までゆっくり寝ると、自転車で船着き場へ。朝靄の河口を、市営の渡し舟の 1 分足らずの航海で、工場群の建ち並ぶ向う岸。乗客それぞれの“ありがとう”の挨拶に、若い船員の返事はいつも“アッ ハイ”と恥ずかしそう。7時 30 分には席につき、業界紙に目を通したら、夜勤明けの職長に電話して、昨夜の工場の成績チェック。そろそろ入る、家内からのオハヨウの携帯メールは、朝の子どもの世話が一段落ついたしるし。自分で淹れたコーヒーを飲み終わる頃、スタッフの顔もそろって、騒然とした一日が今日も始まります。

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幸いにも、家庭では大学生2人に小4の双子と、4人もの息子に恵まれ、これまで子供の成長を楽しみに、夢中で日々を過ごせました。

 

 

気が付けばもう天命を知るべき歳となりながら、足掛け 24 年も続く子育てと、生活の苦闘の中で、“四十にして惑わず”すらマダマダ。 

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“天命を知る”という言葉は、多くの引用で運命とか限界、規矩のようなネガティブな使い方がされているようです。私の気に入っている説明は“どんなのんきな者でも、理屈の多い者でも、職業人となり、家庭人となり、五十の声がかかれば、自ら結論らしいものを持つようになる。若いときいろいろ空想を描いていたのと違って、私はこういう人間だ。このへんが私の精一杯のところだ、こういうところに満足を覚えるという限界点、その人間の絶対境に到達する。”と言うものです。自分の生き方を知って自信を持つことだ、と考えるようにしています。そろそろ、自然の摂理を受け入れ、素直に生きる自分を見つけないと・・・

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家に帰らないのは仕事中毒というわけではないのですが、最近ワーカホリックの面白い定義を見つけました。

@ 人に仕事を任せられない

A 相手の代わりに考える

B 相手が「考えない」ことに怒り、攻撃する

C 計画や段取りを狂わされることにいら立つ

D 時間・金銭・責任などに細かく、うるさくなる

・・どうも、殆どすべてが思い当たります・・・(特にB)・・・みなさんは如何ですか?
 
 
 

「 マラソン 」

3年8組 森岡 進

8組の森岡です。京都府庁に勤務し、城陽市(宇治市の南)に家族5人で暮らしています。2年前テニスコートの隣に引っ越してきて、いつでもテニスのできる環境の良いところです。

でも、最近やっていることは、マラソンです。昨年は、フルマラソンで3時間21分の自己記録が出ました。マラソンを始めたきっかけは、明石大橋の開通記 念のハーフマラソンに走ったことです。高校時代に眺めていた明石海峡を走るのは、一生の記念になると思い頑張って走ってみました。君原選手と握手もしまし た。

 

 

それから、欲が出て、フルマラソンに挑戦しようと翌年フルマラソンを走りました。

初回は4時間6分で完走できたので、気を良くして毎年走っています。練習量に比例して記録も伸び、体重も 10 kg減りました。今後の目標は、 100 kマラソンを完走することです。

しかし、今年になってから左膝が走ると痛みだし、練習が十分できず、記録も伸びていません(年のせいかな)。何か良い治療法はありませんか。

地域の「京田辺走ろう会」というクラブに入って、練習をしていますが、会員 90 名のうち3分の1は60歳を越えており、私は平均より若い方です。 60 歳を越えてもフルマラソンで3時間を切る人がいますので、私もまだまだ発展途上かなと思っています。

定年というのを身近に感じる年になってきました。濡れ落ち葉といわれないように、楽しい人生が送れるようにしたいと思う今日この頃です。
 
 
 

「 未だに自分探し 」

3年1組 幸島 ( 関井 ) 良江

子供たちが成長し、そろそろ子育て卒業と大好きな京都の町に、夫と時には一人で出かけ、お寺巡りや器のお店や市場で買い物をして楽しく過ごしていました。こんな生活もいいかと思っていた頃、友人に消費生活アドバイザー資格取得のための講座受講を勧められました。根が貧乏性なのか、すぐ決断。現在、 10 月の受験を目指し勉強中 (?) です。ご存知の方も多いと思いますが、一次の筆記試験は法律、行政、経済、環境問題、生活知識など 13 課目から出題されます。高校の教科書や参考書程度ということですが、講師の先生曰く、重箱の隅を突くような問題や引っかけ問題が出ることもあり合格率が上下しています。一次試験を通過すれば二次は小論文と面接で「面接では資質を問う」とあり、向き不向きを見られるようです。あちこちで公表してしまったので、やらなければと焦るばかりではかどりません。 私のつまらない近況報告はこれぐらいにして、話は変わりますが今、女性たちが様々なに分野で活躍し、世界に進出しています。日本人では栗原はるみさん(写真)が、「ゲルマン世界料理本大賞」を受賞されました。今日のメディアヘのきっかけは、ご主人の栗原玲二さんのお力が大きいと思います。ご本人の毎日の努力と大変な投資をされたことは想像ができます。全国で店舗展開し、その他の企画はとどまるところを知らない勢いです。

 

 

でも授賞式のスピーチは頼りなげで普通の主婦の姿で、かえって新鮮に見えました。ファンとしてな拍手を大きおくりたいと思います。恥ずかしいのですが、私も一時期、料理に関わる仕事をしていました。当時の仲間で有名先生のところに高額の授業料を払って習いに行っていた人もいます。私たちも明日の栗原はるみを目指していたのです。 ( 余談ですが、 2 年生の時、勝川君に誘っていただいて栗原玲二さん司会のサンテレビの番組に出演できたことはとても良き思い出です。勝川君、その節はありがとうございました。 )

もう一人、昨年のノーベル平和賞を受賞されたケニアの環境副大臣のワンガリ・マータイさんをテレビで拝見し、大きな感銘を受けました。地元に木を植えることから始め、女性の地位向上にまで至らせ、環境を守ることこそ平和に繋がることを実践されました。そのお姿は何とも華やかで美しくケニアの民族衣装なのでしょうか、よくお似合いでした。このお二人の女性に力強さを感じると共に優しさも感じました。偉大な事も日常から積み重ねられたものなんですね。

交叉点 24 の編集や発送をして下さっている中村さんと河合さんご夫妻はじめ 24 回同期会の運営に関わっていただいています皆様にこの場をお借りし、お礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございます。

P.S. 明石市内の中学出身ではないので、 3 年間転校生のような気持ちで過ごしていたような気がします。今回、中村さんに原稿依頼のお電話をいただいてとてもうれしく思いました。
 
 
 

「 自己紹介のような、日記のような 」

3年3組 野田 昌宏

4月3日の日曜日の晩に突然、中村君から電話があり、「一瞬何かよくないことが起こった?」予感がしました。中村君とは中学も違うし、理科系と文科系のクラスも違い、高校時代は名前をしっている程度だったので、中村君から電話をもらう理由がみあたらないので、 共通の友人である河合君の身によくない事が(河合君御免)起こったのかと思いました。が、話はなんと交叉点の原稿依頼のことでした。俺にまで電話してくるぐらいなので、書き手がいなくて困っているのかもしれないと(私の勝手な考えです)よく考えもせず引き受けてしまいました。

同級生とはいえ、卒業してから 33 年、覚えていらっしゃらないかたや、もともと知らないかたもおられると思いますので、自己紹介をさせていただきます。中学校は望海中学 高校:クラブは地味な?卓球部、本人もいたって地味でした。大学は現役でなんとか京都の某私立大学にすべりこみました。4年間2時間かけて大学まで通学しました。今から思うと下宿をして大学の友人と触れあったり、クラブかサークル等の活動をしたり、自由のきく4年間をもっと有意義に過ごしていたらと後悔しています。そして勉強も・・・いまごろこんなこと思ってもしかたないのですが……

4年間で大学は無事卒業、就職は同級生なので皆も同じだとは思いますが、就職難でなかなか就職が決まらず大変でしたが、某量販店( GMS )に就職内定。 入社以来同じ会社で 29 年間今日に至るまで平凡なサラリ−マンをしています。あっというまの 29 年間で、人間的な成長もなく、(身体だけは年相応に老け)、ただただ年齢を重ねてきた次第です。 30 歳で結婚し、二人の子供の父親となり、子供が小さい時は子育てという素敵な思い出を子供からいただきましたが、その子供も今年 21 歳と 19 歳になります。これからは、自分の定年後も見据えて生活のことや、没するまでの生きがい?とか、 仮に 60 歳まで働くとして、その後の時間の過ごしかたが非常に大切になってくるのでしょうが。 ボランティアとか社会奉仕とかたいそうに考えず、何か役にたつことがあればお手伝いしたいなあとは思っているのですが・・・地元に住んでいても、地域とのかかわりは一切ないという根無し草状態でして、今後は自分から積極的に関わろうとは思うのですが、何から、どこから、どうすればいいのかがわからず現在にいたっています。

 

 

 

もっぱら休みといえば、昔の音楽を聴いたり、小説を読んだりして時間を過ごしています(まるで昔の学生?)。ミステリーや、最近は年のせいか読後感が非常にいい(爽やか)青春小説をよく読んでいます。 参考までに最近私が読んでよかった作者と題名を紹介しておきます。大崎 善生 「パイロットフイッシュ」 宮本 輝 「草原の椅子」 村山 由佳 「すべての雲は銀の・・・」柴田 よしき 「ふたたびの虹」 「桜さがし」  重松 清 「流星ワゴン」  etc

もう一つの関心時は野球です。新球団の楽天イーグルスオーナーが明石高校の後輩の三木谷君、監督が大学の同期生の田尾君(彼は野球で当時大学内では有名でして、私は知っていますが , もちろん彼は私のことを知らない)ということでセリーグは阪神、パリーグは楽天を応援しています。阪神ファンのかたや、楽天ファンの方、また一度野球場まで応援に行きましょう。

自己紹介のような、日記のような非常にとりとめのない文章になってしまい、なんのことかさっぱりわからない話になってしまいました。

とりあえず大きな病気もせず、元気に暮らしています。またどこかで見かけたら、声をかけてください。飲み会や集まり等も喜んで参加させてもらいます。まあこんな中身のない内容でも掲載されるので(ほんとすみません)、もっと気楽に中村君まで投稿してあげてください。
 
 
 

「 再就職 」

3年7組 太田(畠田)良子

毎年、「交叉点」を楽しみにしている 1 人です。

皆さんのご活躍を拝見する度に、「わたしも頑張らなくては、、、」と励まされてまいりました。今回、中村君から原稿の依頼を受けたとき、結婚以来 28 年近くも専業主婦の私には、皆さんにお伝えできるようなこともないし、皆さんのように立派な文章を書く能力もないのでと、断りしたのですが、「一人一人生きてきた人生の重みは同じでしょう。」と言われ、その一言でペンをとる決心をしました。

一昨年末に主人が会社の早期退職制度を利用し独立することとなりました。

どこかに事務所を借りてスタートしたかったのですが、軌道に乗るまでは自宅で、ということになりました。かくして、主人が一日中家にいるという事態に陥ってしまったのであります。

さあ大変!主人が家にいるなら、私が外に出ようと決意し、幸いにも病院の受付として働くことができました。

そこは大阪の北摂に位置する肛門科の専門病院で院長先生は新聞や雑誌、本にも名医として紹介されています。

そんなわけで患者さんは近くはもちろん、遠くは和歌山、京都、滋賀などからも来られます。老若男女を問わず、けっこう多く。日本人の 3 人に 1 人は“痔主”と言われるのもうなずける思いです。と言うことは、 24 期生 450 人のうち 150 人が痔主という計算になりますが、そこのあなた、大丈夫ですか?

いやあ、これは大変失礼を申し上げました。

 

 

失礼ついでに、ここでチョッとお知りの話なんか、、、

一般に痔とよばれているものは痔核(イボ痔)、裂肛、痔ろうの 3 つに分けられます。

一番多いのが痔核、肛門主意の静脈がうっ血を起こし晴れ上がってしまう。直腸にできたときは内痔核、肛門部なら外痔核と区別されます。進行するとお尻からイボのように飛び出してくるのためイボ痔と呼ばれます。

女性に多いのが裂肛、いわゆる切れ痔です。すぐに治りますが、くり返すと潰瘍化してしまうのでご注意を!

痔の中でもっとも厄介なのが痔ろう。

肛門周囲の皮膚に穴が開いて肛門と直腸の境界部との間にいつまでも治らないトンネル(ろう管)が残ってしまうものです。中にはうみがたまり、痛みが出てくる。放置しておくと管の枝も広がって複雑化します。早めの手術が必要です。

痔は便秘と下痢が原因で起こる病気です。食生活にはくれぐれも気をつけて。

それでも不幸にして痔になってしまったら、当医院をお訪ねください。運が良ければ(?)私がお出迎えいたします。ただし私はナースではないので、お尻をのぞくようなことは絶対いたしません!念のため。

「人生の重み」とはまったく関係のない話になってしまいました。悪しからず。

最後になってしまいましたが、毎年「交叉点」の発行にご尽力いただいている皆さまに心よりお礼申し上げます。
 
 
 

『 事務局通信 』

 

1•  訃報

 恩師の、松本良信先生が、2月にお亡くなりになりました。

 この件に関しましては、まったく連絡もなく随分後になるまで知りませんでしたので、メーリングリストでも関連の情報を流すことができませんでした。 お詫びいたします。

 今回の理事会で、この情報を明石高校からせめて各回理事宛にでも、流してもらえる環境作りについて、自彊会事務局にお願いいたしております。

2•  個人情報関連

 皆さんもご存じの通り、「個人情報保護法」が、この4月1日から施行されました。私も法律には詳しくはないのですが、これまでお願いしておりました、「不明者」に関しての個人名は今後一切削除するしかないと思います。

 今後は、転居された場合、一年の郵便転送期間を過ぎますと、こちらでは、調べようもなくなりますので、ただでさえ大変な引越しとは思いますが、なにとぞ、事務局「河合」の方へもご連絡いただきますように、お願い申上げます。

 また、この際、明石高校同窓会へも連絡いたしておりましたが、これに関しましては、ご都合の悪い場合は、その旨、ご連絡たまわりますように、お願い申上げます。

〈 24 回生事務局〉河合昭彦

〒 674-0051

明石市大久保町大窪 1000-1

Tel&Fax 078-934-1667

E-Mail aykawai@maia.eonet.ne.jp

http://www.eonet.ne.jp/~aykawai

 

『編集後記』

 

やっと、交叉点が完成しました。原稿の依頼ができれば編集は半分以上済んだようなものです。私や河合君周囲の人間はほ依頼し終わり、ちょっと手づまり感が漂っていました。

そこで、前回の交叉点寄付金に応えていただいた方数人に原稿執筆をお願いしましたところ、ほとんどの方に快く引き受けていただき、深謝するしだいです。

 

中村守

〒 673-0845  明石市太寺 3 − 2 − 3

Tel & Fax 078-911-7510

E-Mail Drmamoru@aol.com