Vol.5  1997
素晴らしい経験 高徳 雄三 先生
雑 感 佐伯 敏裕(旧3年6組)
梅ちゃんのこと 尾鼻 宏之(旧3年10組)
短信(1) 塚原 英成
短信(2) 大字(旧姓 山本)あゆみ
短信(3) 中島 美智子

 

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素晴らしい経験」   

高徳雄三 

皆さん、その後お変わりなくお過ごしのことと思います。先* 、明高での集まりではお世話になり有難うございました。明高6回生の私が一昨年定年を迎えたのですから、24回生の皆さんは今年は44歳の働き盛りかななどと思い巡らせています。

私の近況をお知らせします。平成83月、尼崎西高校を最後に38年間の教員生活を終えました。ちょうど半分の19年間は母校でお世話になった訳です。その4月からは赤穂市に誕生する関西福祉大学設立準備室に広報担当参事として勤務し、今春開学した後も同じ仕事をしています。この大学は赤穂市が町の活性化を目指し、土地と校舎を提供して誘致した社会福祉学科のみの四年制私立大学です。現在一回生だけが在籍していますが、200人の定員に対して、北海道から沖縄まで全国から約2500人が応募し、その中で明高で皆さんと同期の竹田(現姓金月)貴美代さんのお嬢さんが難関を突破して入学してくれたことは私としても嬉しい限りでした。

話は横道にそれますが、本校入学生の母校へ挨拶するため、四国へ車で行きました。行きは淡路経由で鳴門大橋を渡り徳島に入りました。市内や郡部の学校を訪問し、吉野川を遡り観音寺市に出て香川県をまわりました。高松からは宇高フェリ−で岡山に出るのが普でしょうが、高松からは神戸の青木に渡るフェリ−があることを思いだして、時刻を確かめると5時半の便に空きがあるとのこと、ここですばらしい経験をしました。その船にはドライバ−用の風呂がありレストランは最高の見晴らしの場所でした。一風呂浴びて暮れなずむ瀬戸内に散在する島々を眺めながらビ−ルのジョッキを傾けましたが、3日間車で走りずめの疲れも一気に回復する感じで、一眠りすると東灘区のフェリ−埠頭に着きました。何か幸運を拾ったような気がしたものです。ぜひまた乗りたいと思いますが、この航路が廃止にならないかと心配です。

ところで同窓の絆とか母校への意識は、40歳を過ぎたころから各自の心にそれぞれの形で実感として改めて形ずくられていくものであり、それがどこかで我々の生きる支えのようなものになって来る。これは私の経験ですが、共感しておられる人もあるかと思います。

働き盛りで、また女性も円熟の年齢に向かっている皆さんが、ますます充実した日々を送られることを祈っています。

平成997

 


「雑    感」                                               (旧3年6組)佐伯敏裕  

卒業して早や二十五年。縁あって恩師松本良信先生の後を受けて、明校の書道担当として勤務させてもらっています。勤務校としては明高が四校目になるのですが、転任してきた早々は当然のことながら他の学校へ赴任したときとは違い、懐かしさと感動の日々がしばらく続きました。まず懐かしいグランドでの始業式、その場での校歌の斉唱。このごろの生徒は大きな声で歌わないのが淋しいですが、それでも久々に聞く校歌はグッと胸にこたえるものがありました。同じ日、午後から入学式があったのですが、準備のために入った中部講堂には在校当時のままのあの青いパイプ椅子が、そして舞台の上の演壇机には我々二十四回生の卒業記念品の文字が記されていました。舞台に向かって正左上には「自治・協同・創造」の文字が、これも昔のままの姿で掲げてありました。知らなかったのですが、校訓を揮毫したのは、あの有名な嘉納冶五郎ということを松本先生から伺い、母校の歴史の重さのようなものを改めて認識した次第です。その他諸々、職員として勤めた明高での最初の一年間は生徒の目で見ていた頃とはまた一味も二味も違った感慨深いものがありました。

  最近では我が二十四回生の二世達の入学生が年々増えてきまして、生徒よりもこちらの方がちゃんとしておかないと、これまでの教員生活で経験しなかったような変な緊張感と、併せてこれまでに経験しなかったような何とも言え親しみのようなものを感じながらの毎日を送っています。因に明高の現生徒会長は河合昭彦さん嘉さん御夫妻の娘さんがやっておられます。職員では同期の福井尊徳さんが私の所属する第ニ学年の副主任として、それに今年一年間は松本良信先生にも時間講師として出講願っております。職場とはいえ、親・兄弟・子供に囲まれているようなもので心強い限りです。

 

  校舎が改築されて校内の様相は変化しましたが、四階の教室から海の方を見る景色は高校時代に眺めたそれと殆ど変わらず、いやそれ以上の絶景が楽しめますので近くをられた折や運転免許更新の際には是非共お立ち寄り下さい。心よりお待ちしています。

 

 


 

「梅ちゃんのこと」

(旧3年10組)尾鼻宏之 

八月の終わりか九月のはじめ頃だったと思う。浅田勝彦君がやって来て、梅ちゃん(故梅本真也君)の追悼文を書けという。いい加減な返事をしたものの、迷いに迷っているうちに締め切りの九月末日がやってきた。夕刻、河合昭彦君から電話、「おい、出来たか?」、「まだや。今日締め切りやな。」、「まあ…、一、二日は遅れてもかまへんけど……。」、「……。なんとか書いてみるわ。」、で、書き出したのが、十月一日午前三時二十分。二杯めのグラス(焼酎ロック)が空になりかけている。

正直いって、在学中の梅ちゃんとは、顔を知っている程度で、あまり親しくなかった。たったひとつ印象にのこっているのは、誰かに、「おーい、ウメコー(ウの発音、ヒジョーに怪しい)。」と呼ばれた時に、なんとも形容しがたい、いやそうな恥ずかしそうな表情で、「なんやー。」と返答していたのを覚えているくらいだ。「誰か」というのは勝川だったかも知れない。

震災があった年のある日、梅ちゃんが僕の店(飲み屋)へやって来た。遠慮しがちに表のドアを開けて、僕の顔をじっと見ている。一目で梅ちゃんだとわかった僕は、「いらっしゃい。やあ、久しぶりやなあ。」と言った。二十数年ぶりかの再開(同期会に出席していたかも知れないが、僕は覚えていない)であると同時に、それが亡くなるまでの二年数カ月の付き合いの始まりでもあった。浅田から僕の店のことを聞いてやって来たというその日の梅ちゃんは、幼馴染みのT君と一緒だったので、僕とはあまり話をせずに帰っていったが、数日後、今度は僕が梅ちゃんの店「キャラドワ」へケーキを買いに行った。綺麗で美味しそうなケーキ(食べてみて、実際にどれも美味しかった)がいっぱいに並らんだショーケース、愛想のいい店員、喫茶コーナー、壁には趣味のいい絵、フランスでケーキ造りの修業中に休暇を利用して行ったボジョレーで、葡萄摘みを手伝った時にもらったという「名誉葡萄栽培業者」の称号の入った額(今は僕のところにある梅ちゃんの形見)等々、とても素敵なお店だった。

幾度かお互いの店への行き来のあった後のある日、震災の年の盆開けの頃だった。梅ちゃんの店の表に、「勝手ながら休業させて頂きます」の貼紙…。

さて、ここまで書いて来て筆がとまってしまった。冒頭に迷いに迷ったと書いたが、まだ迷っている。が、迷いながらも筆をすすめることにする。離婚--、そして廃業--、である。何があったのか僕も聞かなかったし、梅ちゃんも語らずに逝ってしまった。

ただ、店を撤収するにあたっては、浅田、河合、川崎、松尾、中村そしてついでに僕がお手伝いしたことをとてもよろこんでくれていた。梅ちゃんは落ち込んでいた、悩んでもいた。そんな梅ちゃんを励ます会をやろうと言い出したのは河合だった。某日、河合の家に集まったのは、梅ちゃんをはじめ六、七人、それにもちろん河合夫妻。落ち込んでいる梅ちゃんにストレートパンチを食らわせたのは僕だった。「こいつなあ、嫁はんに逃げられよってん。」、「あっ!」浅田である、後は絶句。「お前なー。」梅ちゃんも同じく絶句。後はバカ話しやら、政治談義、思い出話しだったと思うが、酔っていてあまり覚えていない。しかしその席で僕が、かねて梅ちゃんより聞いていたK村君の話(K村はその日同席、話の内容は敢えて秘す)をしたのがいけなかった。後日、僕の店へやって来た梅ちゃんがすごい剣幕で、「おいお前、おれを話の肴にするのはええけど、おれが話したことをネタに俺の友達を肴にするな。」梅ちゃんは涙を流している。(ホンマに心やさしい、友達思いのええ奴やったなあ。)

----この件、同期生の中にはK村氏が何名かいらっしゃるでしょうが、垣村氏以外のK村氏には多大の御迷惑をお掛けしたことお詫びします。----

そんなことのあった後、梅ちゃんとはより仲良くなった。朝まで飲み明かしたこともある。あるときなど、梅ちゃんと浅田と僕と三人で行った寿司屋で、親爺の遺言で喰ってはいけないと言われていた河豚の肝を、だまして喰わせたこともあった。

今年の四月十二日に、人丸公園でした花見が梅ちゃんの笑顔を見た最後になってしまった。それから六日後、十八日に梅ちゃんは逝ってしまった。理由あって、離れて暮らすことになってしまった娘さんの事を、思い続けていた梅ちゃん、今は天国から見守っていることだろう。

僕のために天国でいい場所を取っておいてくれよな。あっ、どこからか浅田の声が聞こえてきた。「お前の行く先は、天国とちごうて地獄じゃ!」

そうか、僕と浅田は地獄行きか。まあいいか、俺達は梅ちゃん程いい奴じゃないもんな。

 

天国の梅ちゃん。安らかに。  合掌。

 


 

短信(1)

拝啓  陽春の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。この度、一身上の都合により公立高等学校の教職を退くことになりました。ここに謹んで兵庫県立高砂高等学校八年間(県立高等学校勤務二十年間)の御厚情を心より深く感謝申し上げます。在職中は、何かと至らない ことの多かった私を温かくご指導下さり、本当にありがとうございました。今後は、陰ながら子供達の成長を見守り応援したいと存じます。略儀ながら書をもって退職のご挨拶を申し上げます。

なお、退職後は下記にて、自らの信ずるところを以て、教室事業を自営していく所存でございますので、あわせてお知らせいたします。今後とも益々のご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

                                                         敬具   塚     

教室  〒675  加古川市加古川町西河原34           GPKビル2F

              生涯学習塾  Lスクール加古川                                            TEL 0974-22-8739

自宅 〒675  加古川市加古川町木村

       697-1              TEL 0974-22-2304

 

短信(2)

めっきり朝晩が冷えこみ空の青さに秋の深まりを感じる今日今頃です。いつもお世話いただき心より感謝しております。この度は真をありがとうございました。気持ちだけはいつまでも若いつもりなのですが…真は正直ですネ。 又会える日を楽しみにしております。まずはお礼まで。

伊丹市  大字(旧・山本)まゆみ

 短信(3)

 先日は同期会の信を送って下さって御礼申します。皆様がた、そして先生方の動向が知ることが出来、なつかしく拝見しました。いつも何かとお世話下さって感謝申します。 お元気でお暮らし下さい。やはり、中村先生のいない事、淋しいです。

 中島美智子