Vol.6  1998
゛無題゛ 須井(旧姓 三原)真理 (3年8組)
近況報告 藤本(旧姓 吉沢)博子 (3年4組)
ラベンダーの季節 酒井一夫       (3年5組) 
初めての投稿に寄せて 松田千尋            (3年9組)
ニューヨーク単身赴任 竹内規        (3年5組) 
親友河合照巳君を偲んで 二木(漣)英二       (3年9組) 

 

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「無題」

(3年8組) (三原)須井真理

北陸の秋としては珍しく晴天が続き、気温も上昇し、干した布団がふかふかになりました。1010日より2週続けて白山連峰の方へ紅葉狩りにいってきましたが、雲一つない抜けるような青い空、上から茶、橙、黄、茶緑のグラヂュエーションに裾の白いススキの穂と紫がかった灰色の巨石にかかる蒼い清水を目の前にして、シャッターを何回か押しながら、たぶんこの美しい色はらないだろうなと、ぼんやりと見つめてしまいました。「山は秋だ」と、この季節の白山スーパー林道をお勧めしたいところですが、帰路、その方よりの自動車で街の中さながらの渋滞ぶりでした。ちなみに、白山、立山とも室堂付近は20cmの積雪で、初冠雪は早かったです。

えらく長い前置きになりましたが、この度お便りしたのは、住所が変わり、部屋番号が703号より706号となりましたのでお知らせしたかったからです(小松市大領中町2-48-3 信開ドムス大領中706号)。

先日送っていただいた「交叉点24」を拝見しました。こんな遠いところまで、いつもいつもありがとうございます。私はあの「梅ちゃんのこと」を読んで、梅本慎也さんを全く存じておりませんが、具体的な言葉がたくさん書いてあって、なぜか心に響き、なぜか明石を感じて懐かしく思いました。感動しました。実家が垂水区にあるのに、たまにいっても、なかなか明石まで(近いのに)足がのばせないでいました。明石の駅も変わったらしいなあ、お城はそのままだろうか、明高の近くまで歩いていってみようかしら、と思ってしまいました。やはり40代半ばの郷愁でしょうか。

これからも明石よりの通信を楽しみに待っております。よろしくおねがいします。

971022日)

 


 

「近況報告」

(3年4組) 藤本(吉沢)博子

咋年、偶然出会った河合氏から「交叉点」に何か投稿してほしいと言われていたのですが、私用にとりまぎれいつのまにか正月も過ぎていました。平成となったのがついこの前のような気がするのに早や平成も10年。1年の経過がだんだん早くなっていくように感じるのは歳のせいでしょうか。平々凡々と過ごしてきた私にとっては特に話題もないので、私事の近況でも書いてみることにしました。

咋年3月で卒業から25年、進学せずに就職したので、仕事でも25年となり秋には永年勤務者表彰を授章しました。配置替えなどで仕事の内容が変わることもありますが、大きな変化もなく、また結婚、 出産、育児という時期もあったのですが、両親の手助けと主人の協力などでほとんど苦労することもなく過ごしてきたように思います。

卒業後遠ざかっていた明高ですが、平成5年3月に長男の入試の発表を見に久しぶりに校門をくぐりました。なつかしさと、すっかり新しく変わった校舎にちょっぴり残念な気がしたものです。

新制服に変わってから3年目、つまり3学年ともに新しいブレザースタイルにそろった年でしたので、私たちが着ていたあの紺の制服を見ることもなく、また、私たちが学んだ校舎や図書館、古い部室などもすっかり無くなっていました。昼休みによく散歩した「ひょうたん池」は残っていましたが、忘れ去られたように雑草に覆われていました。入学式で講堂の雛壇の席に座ったとき、やっとあの時のままの懐かしい風景を見た思いがしました。

それからも何度か講堂に入ることがありましたが、あの震災でも壊れることなく健在であることが、あの当時につながる唯一のもののように思われます。

平成7年には次男も明高生となり新しくなった校舎に何度となく足を運ぶうちに慣れてきたところでしたが、この次男もこの春卒業することになりました。自分の息子達の高校生活を見ては、「あの当時の高校生は○○○であった。」とつい愚痴をこぼしています。

「自彊70年」というビデオを見ては懐かしくなり、久しぶりにアルバムを開きました。卒業から一度も会っていない顔があったり、すっかり変わってしまった人がいたり。私自身はほとんど変わっていないと思っているのですが...........

私は今も明高の近くに住んでいますので、近くにお越しの方は、ぜひ声ををかけてください。次回の同窓会でたくさんの人にお会いできるのを楽しみにしています。

(98720日)

 


 

「ラベンダーの季節」

(3年5組) 酒井一夫

北海道は花の季節です。庭のラベンダーも満開です。僕の住んでいる芦の道路は、富良野を目指す車で大渋滞です。

先日、富良野岳に登りました。山頂付近の花畑は満開を過ぎ、どこかしら秋の気配さえ感じる様子でした。

去年見つけたナキウサギの巣穴から、ナキウサギが今年も元気な顔を見せると「あー、今年も元気でよかった」と、思わずシャッターを押すのも忘れる思いになりました。近くにはシマリスも忙しそうに飛び交い、しばし動物達の世界に没頭していました。

北海道に来て6年目。初めて担任した1年生に囲まれ、楽しく仕事と趣味を満喫しています(酒井氏は芦で小学校教諭をされています--編者注)。

98722日)

 


 

「初めての投稿に寄せて」              

(3年9組) 松田千尋

卒業して早や26年、世間全にしても私個人にしても本当に色々なことが起こりました。よくもまあ次々と起こるなあと思います。そして今後もどんどん起こることでしょう。最初は苦しいこと嫌なことが起こる度に、落ち込んだり他に何も考えられなくなったりする毎日でした。嫌な事がひとつひとつ来るならまだ良いのですが、一見とても処理し切れないようなことが同時に2つも3つもやって来ると、落ち込んでもいられなくなります。その時に何かが変わります。本当に八方塞りになった時に、心が一瞬真っ白になるという心境でしょうか。開き直るというのとも少し違うのですが、なぜか心が落ち着きます。台風の目に入ったような感じでしようか。すると不思議なことに今までまったく解決の目処がたたなかった事が、するすると動き始めるのです。その解決は、結的に自分が思いもしなかった意外な方法で達成されて行きます。そして気がつくとあんなに悩んだ苦しかったことが、嘘のように無くなっています。もちろんそうなるまでの時間は、事の重大さにより様々ですが。このようなことが繰り返し何度も何度も起こると何か自分の上に大きなものが存在しているのではと、思うようになります。そしてそれらの苦しい事嫌な事が去った後、それを振り返ってみるとき愕然とします。苦しかった事がその後に何倍も大きな財産になっていることに気がつくわけです(財産といっても無形のものが大半ですが)。そしてもうひとつ思うのです。もしこれらの出来事が無かったらいったい自分はどうなっていたんだろうと。

このような事は、色々な人が違った説明で書いていますが、何か共のエッセンスを持っているような気がします。つまり「生きている」のではなく「生かされている」といったところでしょうか。この考えに反発をもたれる方も多いでしょう。しかしこれ程たくさんの問題が次々と起こっては消え、消えては起こるということが繰り返されると、そう考えざるを得なくなってきます。事件が嘘のように解決すると書きましたが、決して自分の思いりにはなりません。思いもよら進み方をしますし、そのスピードも私自身が考えるよりもはるかに早く、解決した後の影響も私が考えるよりはるかに大きなもののように思います。このような事が度重なり、最近になってより強く感じるようになりましたのは、様々に起こる出来事それ自体に困った事などというのは無いのではないかという事です。困った、苦しい、嫌だというのは、個人の感情であって自分の心の持ち方でいくらでも変わるものではないかという事です。

何か最後は当たり前のような話になってしまいました。またこんな風に書きました私自身も、ここまで完全に悟っているわけではありません。やはり相変わらず「苦しい」「嫌だ」といっております。でも目の前の現実からは決して目をそらさないようにしようと思ってがんばっております。年齢的にも時代的にも人生の転換期にある私達であります。様々な苦しい事が目の前に現れたとき、心を落ち着かせていったいなんというメッセージがその中に含まれているのかを感じ取ろうと思うのですが。

989月4日)

 


 

「ニューヨーク単身赴任」

(3年5組) 竹内規

今年の4月末にニューヨークに赴任しました。3ヶ月が過ぎ、ようやく仕事にもこちらの生活にも慣れてきました。神鋼に入社して以来今回で3度目の海外生活になりますが、今回は1年間単身赴任という初めての経験です。実は、年子の娘がおりまして、上の娘は今春無事大学に入ったのですが、下の娘が来年大学受験をひかえており、家内はその倒を見る為に日本に残っております。下の娘が浪人でもすれば、またまたもう1年単身赴任生活を強いられることになります。とにかくどこでもいいから入れる所があればと、ただただ祈るばかりです。

ニューヨークは単身赴任者にとっては大変便利なところで、日本レストランはいたるところにあり、日本食材を売る店も数多くありますので、食事についてはまったく不自由は感じません。ただ、一人で食事をする寂しさ、或いは惨めさはどしようもありませんが.....

私が今住んでおりますのは、マンハッタンのアッパーイーストという住宅街で、まわりには色々なレストラン、スーパーや店があり、大変便利なところです。会社までは約20分程の距離で、バスでも地下鉄でも勤できます。ニューヨークは最近大変治安が良くなっていますので、地下鉄も全く問題ありません。ただ、夏場は地下鉄の構内は冷房されていませんので(電車の中は冷房がはいっています)大変暑く(本当にあついです)、殆ど利用しておりません。地下鉄にしましてもバスにしましても日本のような混雑はなく、毎日座って勤していますので、「勤疲れ」は皆無です。

こちらに参りましてゴルフをはじめました。以前は「ゴルフなんて絶対にしない」と思っていたのですが、一度始めますと、ゴルフの虜になり、暇があればせっせと打ちっぱなしの練習に行ったり、コースに出たりしております。ゴルフはやはり難しく、中々上達しませんので、時々もう止めようかと思うことがありますが、たまにいいショットが出たりすると嬉しくなり、逆に益々のめり込んでいく始末です。今にして思えばどうしてもっと若い内にゴルフを始めなかったのかと反省しきりです。あせらず、ノンビリと続けていくつもりです。

ニューヨークに来られる際は是非声をかけてください。住所は下記の通りです。

455 East 86th Street, #18B, New York,

NY10028

Tel & Fax : (212) 860-2340

日本は毎日蒸し暑い日が続いている事と存じますが、ご健康にはくれぐれもご留意ください。

(9885)

 


 

「親友河合照巳君を偲んで」

(3年9組) 二木(漣)英二

平成9年1211日、河合照巳君が永眠した。急性心筋梗塞が直接の原因だそうで、朝、急に体調を崩し、救急車で病院に運ばれたが、まもなく息を引き取ってしまった。

河合君との出会いは高校2年生の時で、高田先生担任の5組でした。高校3年は理科系の9組で(楞野先生担任)、同クラスになり親しく付き合うようになった。大学受験も迫った正月前に、急に理系から文系に変更したにもかかわらず、見事名古屋大学経済学部に合格したのには、感心したものだ。

その後大学2年の時、腎臓病をわずらい、大学を休学した。大久保の実家で療養しては大学に戻るが、なかなか完治せず、とうとう大学中退を余儀なくされた。「主治医から『君は今から細く長く生きるしかできない』と言われ、大学を断念した。」と、彼は口癖のように言っていたのが思い出される。

療養かたがた税理士資格の勉強を行い、30歳の時税理士免許を取得した。体の調子も良くなり、結婚後大久保駅前に事務所を構え独立した。その後事業も順調で、奥さんと2人で力を合わせて仕事をこなし忙しくなってきた矢先のことであった。病気が再発したのである。仕事の無理がたたり倒れてしまった。腎炎の悪化で透析生活を強いられ、軌道に乗った事務所も閉業せざるを得なくなった。志し半ばのリタイアである。その無念さは、健康な我々には計りしれないものだろう。長男には健康でたくましくという願いを込めて「健太郎」、長女には夢を果たしてくれと「夢香 」、とそれぞれ命名したことからも推察される。

時々話す機会があった。きまって子供の話である。私の子供と歳が同じということから話が弾んだ。健太郎君の作文が優秀で、日本武道館での授与式で皇太子殿下にお目にかかったことをうれしく話してくれたことが思い出される。長い闘病生活のせいもあり、「子供の教育に熱心になりすぎ、子供の負担を大きくしている自分がはがゆい。」と嘆くことが多かった。

先日初盆にお参りした。お母さんより「明高24回生のみなさんのご厚志に深く感謝しています。本当に有り難うございました。」との話を聞いた。最後に「健康で明るく生活するのが何よりです。」と話されたお母さん、奥さんの言葉を河合君の思い出とともに心に刻んでおきたい。

98年8月23日)

 


 

「ふーちゃんへ」

(3年1組) 和澤(佐伯)洋子

今年もまた暑い夏がやって来ました。

夏が近づいてくると、毎年山の計画を立ててワクワクしていたものでした。去年の夏もいつものように山の計画を立てたのに、2人の友が都合でいけなくなりました。ふーちゃんは夏バテで調子が悪いといって、少し痩せていましたね。でも2人でのんびりゆっくり歩こうと、予定* り八ケ岳に出かけたのが最後の山行きとなってしまいました。

今年はどうしようといろいろ考えましたが、去年行けなかった2人の友と3人で、去年ふーちゃんと歩いた美濃戸口から赤岳、横岳、硫黄岳、赤沢温泉と同じコースを歩くことにしました。赤岳への途中、道に迷ってとてもしんどかったと彼女が何度も話していたという場所に立ってみました。ほんとうにどうしてこんな所で迷ったのだろうと思いました。山を歩きながらいろんなことを話したはずなのに何も思い出せません。ただ思い出すのは夏バテだからとあまり食べなかったのと、宿泊した小屋はもちろん、途中の山小屋や山の上でよく寝ていたことでした。硫黄岳の頂上では本当に気持ちよさそうに寝ましたね。岩の上で「ああ気持ちいい....、洋子ちゃんも寝たら?」と...、私には1時間くらいに感じられましたが、本当はどれくらい寝ていたのでしょう。

あれから4ヶ月後にこの世からいなくなるなんて、誰が想像したでしょう。ふーちゃん自身が一番びっくりしているかもしれません。山も温泉も野辺山も清里も、去年と全く同じでした。ただふーちゃんの声がしないのがとても不思議でさみしいです。いつも人のことばかり考えて、自分の病気のことに気がつかなかったのですね。そのことがとても残念で悔しいです。病院で横たわっている姿は貴女には似合いませんでした。

自然と人間が大好きだったふーちゃん。たくさんの思い出をありがとう、やすらかに。

(ふーちゃんとは、3年4組故藤田愛子さんのことです--編者注)