Vol.7  1999
明高半世紀末を飾って 小倉 隆興 先生
超ローカルな散歩コース 白国(旧姓 美馬) 優子 (3年8組) 
「大惑」だった40代前半 塚原 英成      (3年7組)
花のおさなご 藤井(旧姓 三好)  恵子 (34組) 
短信(1) 竹内 規       (3年5組) 
--編集後記-- 中村守        (3年9組)

 

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『明高半世紀末を飾って』

 

小倉 隆興   

 

二十四回生の皆さん元気でご活躍でしょうね。中村守君から手紙を貰って、皆さんの学習振り、諸活動を思い出すにつけ、明高の歴史を飾るにふさわしい、すばらしいものであったと思い出します。一方、私は皆さんに対して非常に不充分なことばかりであったことが思い出されて悔やまれます。

皆さんの卒業の翌四十八年は明高創立五十周年で、私は松田校長から明高五十年の歴史を何か目に見えるような形のもので作ってほしいとの宿題を貰っていました。歴史家でもなく、何の技能もない私はどうしたらよいものかと悩みつつ、毎日、文献や手掛かりをあさりながら、何とか自分勝手な歴史の流れを組み立てて、そしてオートスライドの形に作り、式典の中で公開しました。すべて手作りで、つまらぬ作品ながら大変喜んでいただき、以後、保護者会や新入生のオリエンテーション等の度に利用してもらったり、さらに後の七十周年にはこれを基にビデオの制作も行いました。こんなことで当時、日夜、文献あさり、スライドや、ナレーション作りで、無い頭と時間を使い、皆さんに迷惑を掛けていたことと思います。

その上、もうーつ私には疑念、不安がありました。当時の社会は高度経済成長、太平ムード、三無主義などと言われた中で激しい受験勉強熱が高まっていました。本校ではそれほどあおり立てるようなことはしませんでしたが、それでも補習授業、模擬試験等が強化され、時代の中で仕方ないこととは思いつつ、私にはー抹の不安となっていました。受験勉強は確かに勉強のーつではあるが、本当の勉強ではない、自分で広く、深く考えることなく、引かれるまゝに受験の道だけに走っていく、これではー個の人間としての主体性が失われていくのではないかという疑念から「自分で考え、自分で道を開いていく」よう皆さんに接したつもりです。思いが伝わらず不親切に思われることも多々あったようですが、私の力不足だったと思っています。

しかし、今私は専門学校で、幼児教育系や福祉系の学生相手に授業を続けていますが、真剣に自分の将来や、社会のことを考え勉学に励んでいる学生が多い反面、近年になって、依存心が強く、主体性の無い、自立心未成育といったような学生が増えています。豊かな太平ムードの中で、恣意に流れ、或いは周囲の動きに依存して自分で考える訓練を怠った為ではないでしょうか。

明高生がそうなるとは思いませんでしたが、社会の流れに不安な予感がしていました。そのような思いから、自分で調べ、 自分で考え抜く主体性を養うことが大切であると考え、その具体化のーつとして「自分たちで考え、自分たちで実行する」というあんな修学旅行を行った次第です。いろいろ戸惑ったと思いますが、皆さんが皆さんの力で実行し、成功の評価を勝ち得たこと、大変嬉しく思い出します。そしてまた、それは他校への反応も大きく、後に、実行しようとしたがどうしても実行に踏み切れなかったことなど多くの報告がありました。皆さんの誇りのーつとして思い出していただけたら幸いです。

ところで、それはーつの小さな成功かもしれませんが、今、明高八十年の歴史の中で二十四回生を考えたとき、それはまさに「明高の半世紀末を飾った花」であったと思うのです。学習はもちろん、諸活動においては一面低調などと批判されながらも伝統を受け継ぎ、まじめに打ち込み、着実な歩みを進めた力強い美しい花であったと思います。

時あたかも激烈な大学紛争は高校へと拡大し,近隣でも東から次々と高校を巻き込み、西へと吹き荒れていきました。

 明高にも波は押し寄せ、外部からの押しかけも度々ありました。そんな中で皆さんは生徒会役員をはじめとしてー丸となり「自分たちの学校のことは自分たちで決める」という信条のもとに、頑としてー歩も校門内に入れませんでした。生徒大会も何回か開かれ、各校でー番問題にされた服装の自由化も、みなさんの真剣な討論のうちにー度の混乱もなく収まっていきました。

これこそまさに明高三綱領「自治・協同・創造」の発露、連綿と培ってきた明高精神の深く根付いたー例だと思います。

また、お目にかかる日があろうかと楽しみにしています。

 

追記:文中の五十周年のオートスライドは明高に保存をたくしてありますから、機会がありましたら見てください。七十周年のビデオは希望者に頒布しましたからお持ちかもしれません。(百年、二百年後の生徒に皆さんの活躍を見せてやろ

うと思って作りました)

オートスライド

第1部:創立より終戦まで 約15

第2部:終戦より五十周年まで 約17

第3部:五十周年の1年間の明高生活

 


 

『超ローカルな散歩コース』

 

3年8組 白国(美馬) 優子

 

東京に住んで17年、その間に主人は東京を出たり入ったりしていますが、私はずっとここに居ます。池袋本町(東武東上線、北池袋駅付近)7年、東中野(JR中央線、東中野駅付近)7年、そして目白(JR山手線、目白駅付近)に住んで3年目になりますが、それぞれの土地はそれなりに気に入っています。今、私の住んでいるところを簡単に紹介しましょう。JR、西武、東武池袋駅まで歩いて10分、目白駅まで歩いて8分、目白通りと明治通りが交わった所の北西部に位置しています。明治通りをはさんで向かい側には鬼子母神があり、そこには大銀杏の木があります。直径にすると5mにも思える銀杏の木、その付近には小さなお寺があり、ある日その小道を歩いていると、工務店の制服を着た男性が、「ここのお寺の庭は心が休まりますよ」などと声をかけてくれました。その小道をどんどん進んで行くと、池袋を裏側から眺めていることに気がつきます。ビルを全部裏側から見ているのです。都会のビルの裏は看板が少なく、かろうじて都会らしい屋上の看板の裏を見ているのです。そして、こんなところに墓地があったりするのです。15分も歩いてポーンと大通りに出てみると、そこには自動車の排気ガスと騒音に包まれたビル街。今まで私が歩いてきた道は何だったんだろうと思います。そこには紛れも無く大都会があり、鉄道はJR山手線が新宿、渋谷、東京へ、地下鉄丸の内線と有楽町線が各省中央を抜けつつ銀座へ、東武東上線とJR埼京線が埼玉・川越方面へ、そして西武池袋線が私の勤務している大泉学園から埼玉・秩父方面へと走り、池袋駅はターミナル駅としての役割を果たしています。今となっては、大阪・梅田の地下街と同様、それぞれの思惑を持った人々が行き交う地下街は哀愁すら感じられます。

さて、今歩いた道と90度方向を変えてみましょう。目白通りを目白駅から東へ向かうと、まず学習院大学・高校・中学があります。

秋篠宮様と紀子様のプロポーズの交差点は現在工事中、お二人がデートされた喫茶店は既に閉店しています。もう少し東へ進み、明治通りと上下で交差する千登世橋へ来ると下には明治通りと平行する形でー両編成の都電、いわゆる路面電車が今もチンチンと街道を走っています。運転手さんは自分の座布団を持って勤務交代をしますが、鉄道マニアにはたまらない光景らしいです。少し歩いて「ラ・フレスコ」という店で軽く食事をするのもいいかもしれません。個人的にはタルトのデザートを少々無理をしてもお勧めします。パンの持ち帰りOKも嬉しいです。

そして、さらに東へ進むと故田中角栄さんの邸宅があります。かつては門前に警察官が立っていたものですが、今は相続税のために切り売りをしたとも聞いています。そして田中邸といえば、この付近では最高の場所です。値段?もそうでしょうが、海抜です。即ち、そのあたりの道路からは数メートル毎に下へ降りる小さな道があります、私のお気に入りは胸突き坂です。周囲の樹木が大きく、日光がいつも遮られるため、足元は濡れ、両脇の石垣は苔がついてヒンヤリとした素敵な坂です。自動車は通れません、自転車の運転に自信のある方はどうぞ。その坂が殆ど終わろうとした辺りに、あまり手入れの行き届いていない庭のある関口芭蕉庵があります。それも何となくこの散歩道のメリハリになっています。

その薄暗い道から視界が開けると目の前には神田川が流れ、その川沿いは飽きるほどの桜並木です。そして、右手には新江戸川公園があります。この公園は昔、細川家の庭園でした。庵の縁側に座って本を読んでいる人もいますが、私は、10分程、ボーッと座っているだけという日もあれば、主人と二人で何も話しをしないで座っていることもあります。

冬に行くと、白鷺がいて、誰かが向けるカメラにポーズを取っている様が伺えます。白鷺って本当に真っ白なんですね。その白は感激に値するかもしれません。 新江戸川公園から神田川沿いに少し歩くと椿山荘があります。ここは、山縣有朋の邸宅の庭をそのまま保存し、大きな谷をその庭園に抱えており、夏には蛍を見ることもできます。 その辺りまでー気に歩いて来ると少し汗ばみます。隣のフォーシーズンズホテルでのアフタヌーンティーで一休み。一杯目の紅茶は少し濃い目で牛乳を入れて、二杯目は店の人に頼んでポットにお湯を差してもらい、少し薄目のストレートで、スコーンはたっぷりのクロテッドクリームと一緒に楽しみます。

 これで私のお勧めの、日曜日午後の散歩は完了です。私の大好きな散歩コースに皆さんを付き合わせてしまいましたね。東京に来られる機会がありましたら、この超ローカルな散歩コースを試してみて下さい。

 


 

『「大惑」だった40代前半』

 

旧3年7組 塚原 英成

 

「不惑」と呼ばれる40才を「大惑」で迎えてしまった私。戸惑いの中であがき始めてから、はや6年余の歳月が過ぎ去ってしまいました。毎年舞い込む同窓会の名簿調査の職業欄に、若干の誇りすらもって「県立高校教諭」と記入していたのは3年前までのことでした。最後に残っていた「若干の誇り」にも不安の影がさしてきて、定年を迎えるまでこの境遇に身をおいて悔いはないのかと自問自答を始めたら、自分でも信じられないくらいこの問題にのめり込んでしまっていました。

自分が満足していない状況に甘んじつつ飯を食い続けるべきではない、という忘れかけていた青臭い人生観が急に顔を出したからなのか?それとも積み上げてきたものを一度粉々にしたい衝動に駆られるという中年版「積み木崩し」症候群に感染したのか?何となく周囲の流れに逆らわずにやってきた自分の人生を、主体である私が本当に変えることができるか、自分の人生そのものを実験台にして、一度やってみたくなったからなのか?組織の網の目の中で、無我夢中で走り続けてきた者が、「自己実現」というキーワードに改めて触れたとたんに、まわりの世界が急に白々しく見え、情熱を傾けるに足りると信じていた周りの世界がぐらぐら揺れ始めたからなのか?・・・レトリックは如何様であれ、巷で言う「人生の転機」というものを経験したというわけです。

平成9年の3月、一方の耳には(当時イチローのCMで流行ってもいた)「かわらなきゃ」というフレーズがリンギングし、またもう一方では「好んで安定を捨てるおまえは阿呆じゃないのか?」という周囲の嘲笑を耳にしながら、20年間勤めた宮仕えの仕事を「自らリストラ」しました。

現在は自分の趣味を活かして、貧しくとも一国一城の主として、毎日を生き生きと暮らしています(ホントはちょっと違います)。収入は激減、老後の心配などする余裕もなく、ただ右往左往している毎日です。失ったものも確かに大きいです。しかし、愚痴を言おうにもすべて自分が播いた種であるという前提で暮らす毎日、自分が自分の人生ストーリーの主体であることをヒリヒリと実感できる生活、この小さな一点が、何物にも代え難い大きな価値だと感じています。

明高の同窓生諸氏のことが脳裏に浮かぶとき、みんなはどのようにして「激動の(と感じる人にとってはそういう)40才代」を乗り切ろうとしているのだろうかといつも思います。諸事が安定期に入り、貯蓄と若干の脂肪(?)も蓄えて、生活にゆとりも出来、きっと揺るぎのない暮らしをしているのだろなあと想像しています。いや待てよ、明高がかつて持っていたある種のリベラリズムが、私の例のように、変な吹き出しかたをしている変わり者が中にはいるかもしれないな...とも。

http://kn.org/sc/ E-mailwebmaster@kn.org 

 

追記(編者あてのメールを転記しました):私は明石高校を出てから、高知大学に入り、中で一年は足踏みしましたが、その後、愛知県の県立高校教諭を振り出しに、兵庫県の教員採用試験を受け直して、上郡高校→兵庫教育大学院(内地留学)→上郡高校again→高砂高校と来ました。この間、今の学校制度に大きな疑問を持ち、自分と仕事の関係を何とか折り合いをつけようとあがきましたが、要職につけばつくほど矛盾は大きくなり、やはりこれは続けられないとさとり、文面に書いたように、リストラ自己宣言ということにあいなりました。学校の先生ほど楽な職業はないだろうにと思われるかもしれませんが、そうでもないですよ。

 


 

『花のおさなご』

 

34組 藤井(三好) 恵子

 

この41日から、明石市の大観幼稚園という所で仕事をしている。明石駅にも近く、明石川がすぐ横を流れている。園児数は、4歳児3 1名、5歳児29名、合わせて60名という、小学校に併設されたとても小さい園であるが、来年で創立80周年を迎える歴史のある幼稚園でもある。

 大観小学校が、改築工事に入り、子どもたちが登園してくる門も今まで裏門であった小さな北門であるが、そこからー歩幼稚園へ足を踏み入れると、きれいな花がその季節を語りかけてくるように咲いている。

子どもたちは春にはチューリップやパンジーに「おはよう」と挨拶をかわして思わず泣きやんだり、夏には自分たちよりも背の高いいひまわりを見あげ、早起きのアサガオと内緒話をしたり、今は花壇一面に咲き乱れるサルビアやマーリーゴールド、アゲラタム、インパーチェンスと遊んでいる。花に集まってくるかわいい虫も子どもたちの友だちである。

 サッカーをしていた子どもたちが方向をうまく取れず、蹴ったボールが花壇に入ってしまい、花に向かって「ごめんね」といいながら、ボールがあたって横になってしまった茎を子どもなりに立てようとしているところに出くわしたことはあるが、花をむやみに摘んだり、痛めたりする子どもにこの園に来て、出会ったことはない。 きれいに咲いている花は、子どもたちの心の中に「きれいだな」という思いだけでなく、何か育ててくれているようだ。先生たちが口うるさく「花を大切にしましょう なんて言わなくても、咲いている花が子どもちに語ってくれているように思えてならない。 この花の世話をいつもして下さっているのが用務員のIさんで、I さんにいろいろ教えていただきながら先生たちもがんばっている。幼稚園というところは、なかなかも予算ももらえず、高い花の苗など市から一部をいただける他は、買うことができないのが現状である。そこで Iさんはいつも種をまき、芽を出させ、苗作りから取り組んで下さっている。種を同時にまいているのに芽は一斉には出てこず、早くから芽を出すのもいれば、他のものが本葉を出した頃にやっと芽を出すのもいる。植え変えてもらって早くから花を咲かせるのもあれば、早く咲いた花が枯れて種をつける頃やっと咲くのもいる。この様子を見ていて「子どもたちもいっしょだな」と思うことがしばしばである。いごごちの良い土は必要だし、適量の水も肥料も必要である。

伸びたい時に伸び、咲きたい時に咲く、しかし春の花が真夏に咲いたりすることはなく、だいたいその季節という大きな枠の中で花を咲かせている。ひとりひとりの子どもがそれぞれの花を咲かせることができるように少しでもお手伝いできたら・・・。そんな思いでこれからも幼稚園の先生を続けていきたい。

 


短信(1)

長らくご無沙汰しておりますが、お変わりございませんか?ご連絡が大変遅くなりましたが、本年5月に神戸製鋼のデトロイト事務所に転勤となりました。神戸製鋼が本年4月よりカンパニー制を導入することとなり、鉄鋼カンパニー(鉄鋼事業部)はすべてデトロイトに集約されることになったためです。

家内も5月にこちらに参りました。まだ十分にこちらの生活に慣れておりませんが、二人で頑張っております。こちらにいらっしゃる際はぜひお立ち寄りください。

旧3年5組 竹内 規

33000 Covington Club Dr., #10

Farmington Hills, MI 48334

電話:(248) 538-1926fax兼用)

E-mail:ttakeuchi@kobelco.com

 


 

--編集後記--

先日沖縄にダイビングに行ってきましたが、久米島のサンゴはほとんど全滅していました。海水の温度上昇のためです。オーストラリアのグレートバリアリーフでも、あちこちで50100kmにわたり、サンゴが死んでいるそうです。私達は子や孫にちゃんとした地球をバトンタッチできるのでしょうか??

平成5年の皆様のカンパと同窓会での寄付で、『交叉点24』を6回発行しましたが、残金も40901円と少なくなってきました(収支明細をお知りになりたい方はメールして下さい)。1回の発行で3万数千円かかる経費のほとんどは郵送費です(以前書きましたように、印刷はある方の善意で無料にしてもらっています)。来年からも発行できますよう、皆様の寄付をお願いします。郵便為替のあて先は「01100-8-54952中村守」で12000円です。

原稿を募集します、葉書、手紙、メールどんな形でも結構です、どうぞ送ってください。

673-0845 明石市太寺3-2-3 中村守

Tel078-911-7510  Fax:078-936-0477

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